2009年4月アーカイブ

4/26「学校犬クロ」

北海道札幌市の盤渓(ばんけい)小学校。
20年前のある日、登校途中の子どもたちが、生まれたばかりの捨て犬を見つけ、学校に持っていって保護したことから、この物語が始まります。

引き取り手がない中、この子犬を保健所に送るか、学校で世話をするかを巡って、大騒ぎ。
職員会議で協議を重ねた結果、全校児童が責任をもって犬の世話をするという条件で、学校で飼うことが決まったのです。
学校犬の誕生。子犬は「クロ」と名付けられました。
休み時間になると、クロは子どもたちと元気に校庭を走り回ります。
学校が嫌だと引きこもっていた子も、クロがいるので学校が好きになりました。
みんなの輪から離れて一人寂しそうにしている子がいれば、クロはそれを察してその子のそばにずっと寄り添っていることもありました。

また、クロは学校行事にも参加。
遠足で山に登るとき、クロはいつも一番後ろの子といっしょに歩き、みんなから遅れそうになったら、その子を鼻でつついたり、尻尾を振ったりして励ますのです。
春になって、6年生が学校を去ると、今度は新一年生がクロの新しい友だち。
クロの世話は上級生から下級生にきちんと受け継がれました。
そんな幸せな日々が10年間続き、クロは1999年の春、老衰のために静かに息を引き取りました。

いま、盤渓小学校の玄関には、銅像となったクロが子どもたちを見守るように建っています。
「ある日、学校に来て、その日からともに親しみ、みんなに愛され、多くの子どもの心を支えた黒い犬」
??銅像の脇の石碑にはそう書かれています

4/19「伊能忠敬の初めの一歩」

伊能忠敬。
彼は初めて日本地図を作った人物ですが、その大きな夢を志したのは、50歳のときでした。

当時は人生50年といわれた時代。
しかも彼は測量の知識も技術も一切なく、20歳年下の天文学者・高橋至時(よしとき)に弟子入りするところからスタートします。
初めは伊能の入門を年寄りの道楽と思っていた高橋ですが、昼夜を問わずに猛勉強する姿に感心し、いつしか二人の間には信頼関係が生まれました。

そして1800年、伊能が56歳の時、北海道で測量の第一歩を踏み出します。
当時の測量は、数人が歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算する方法。
昼はひたすら歩き、夜は数値の誤差を修正しながら集計作業に追われる毎日です。
しかも雨の日も雪の日も、海岸線の危険な場所を歩かなければなりません。
そんな伊能に、高橋は江戸から手紙を書いて励まします。
「いま、幕府はあなたの地図が完成する日を、指折り数えながら待っています」
国のため、後世のためと、老体に鞭打って測量の旅を続ける伊能。
彼が歩いた距離は、およそ4万キロで、これは地球一周分に相当します。
ようやく全国の測量を終えた後、あとは地図を作り上げるばかりというところで、伊能は残念ながら息を引き取りました。

日本地図は彼の弟子たちによって作り上げられていきましたが、その弟子たちは伊能の死を地図の完成まで隠すことにしました。
それは、伊能が完成させた地図として幕府に献上したかったからです。
ここまでこれたのは、伊能忠敬の初めの一歩があったからこそ。
その思いが弟子たちの胸に溢れていたのではないでしょうか。

きょう4月19日は、伊能が北海道の測量に出発する初めの一歩を踏み出した日です。
大きな事業を成し遂げるとき、そこには必ず勇気ある一歩があることを、日本地図は教えてくれているのかもしれません。

4/12「被災地に笑顔広げるパン缶」

栃木県那須に、ちょっと珍しい「パンの缶詰」を製造している会社があります。

きっかけは、1995年の阪神・淡路大震災のとき。
パン工場の社長は、被災した人々の惨状を見て、いてもたってもいられなくなり、トラックにパンを積んで、栃木県を出発します。
ところが、震災の影響で交通はストップ。
パンは無添加だったため、やっとの思いで辿り着いたときには、半分以上にカビが生えていました。
せっかく運んできても食べることができない。
しかも、被災地で配られている乾パンは、お年寄りには固すぎる。
「保存ができて、しかも焼きたての美味しいパンを届けられたら、どんなに喜ばれるだろう」
社長の胸には、そんな思いがこみ上げてきました。

保存性と美味しさを同時に求める研究は困難を極めましたが、およそ1年後、ついに念願の「パンの缶詰」が誕生しました。
缶は、缶切りがなくても簡単に開けることができ、中からパンの甘い香りが漂います。
しかも、開けた後の缶の切り口が、丸くなるようにできているので、中身を取り出すと水などを入れるコップとしても利用できます。

発売当初は、商品の珍しさが先行していましたが、その評価は、新潟中越地震をきっかけに急変します。
避難した人たち、とくにお年寄りに、柔らかくておいしいと大好評。
「あれば便利なユニーク商品」ではなく、「なくてはならない商品」として認められ、社長はその後、海外にも義援物資として送り続けています。

イランでは、震災で家族を失った子供たちに配られ、久しぶりに笑顔が戻ったと報じられました。
「パンで被災地に笑顔を広げたい」という思いで、社長はきょうも、パンの缶詰を作っています。

4/5「0.01秒の贈り物」

トップアスリートたちにとって、記録の数字は、永遠に追いかけ、追いかけられるものです。

成田真由実さん。1970年生まれ。
13歳のときに脊髄炎が原因で下半身麻痺となりました。
車椅子の生活の中で彼女が選んだのは、水泳。
さまざまな病状と戦いながら、96年のアトランタ・パラリンピックに出場し、金銀銅合わせて5つのメダルを獲得しました。
とりわけ得意とする100m自由形、50m自由形ではどちらも世界新記録を樹立。
しかしこのとき、彼女の胸に熱くあふれたのは、「タイムより友情」でした。
彼女と同じような障害をもつ世界記録保持者・ドイツのカイ・エスペンハイン。
このカイに勝ちたい一心でここまでがんばってきた成田選手だったのです。
ゴール直後、二人は水の中で抱き合って、お互いの健闘を讃え合いました。
言葉は通じなくても、二人の間には、「4年後もシドニーでいっしょに泳ごう!」という約束が語られていました。

そして、実際、4年後のシドニー大会で二人は再会。
50m自由形で成田は39秒23の世界新を叩き出しました。
その瞬間、プールのロープ越しにライバルのカイが近づき、祝福を贈ります。
二人は泣きじゃくりながら、いつまでも抱き合っていました。

さらに、4年後のアテネ大会。
成田選手はまたも50m自由形で前大会を0.01秒上回る39秒22の世界新を出して優勝しました。
しかし、そこにライバル、カイ・エスペンハインの姿はありませんでした。

障害の病状が進んで、3年前に帰らぬ人となったのです。
そのショックを越えて、「カイの分も背負って泳いだ」と語る成田選手。
0.01秒は天国にいるライバル、カイからの贈り物だったのかもしれません。

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