2009年5月アーカイブ

5/31「オスカー・娘から父への贈りもの」

明日から6月です。
5月の母の日に続いて6月第3日曜日は父の日です。
今日は、アメリカ映画の祭典、アカデミー賞での娘から父への素敵な贈りものをご紹介します。

毎年、様々な感動を呼び起こすアカデミー賞ですが、27年前のヘンリー・フォンダの受賞も多くの人々の心に残るものとなりました。
名優ヘンリー・フォンダといえば「怒りの葡萄」「荒野の決闘」「十二人の怒れる男」などハリウッドの映画史上に残る多数の代表作がありますが、なぜかアカデミー賞には縁がありませんでした。
1980年、75歳のときにようやくオスカーを手にしますが、それは名誉賞。
満足しなかったのは娘のジェーン・フォンダでした。

父親と同じ道を歩み、すでに二度にわたってアカデミー主演女優賞を受賞していたジェーン。
彼女は父親のために主演映画を企画します。
タイトルは「On Golden Pond(オン・ゴールデン・ポンド)」。
ひと夏を別荘で過ごす老夫婦の愛と、仲違(なかたが)いしていた父親と娘の和解を描いた作品でした。

実は、母親の死をきっかけにヘンリーから遠ざかっていたジェーンはこの作品で父と娘役で初共演しています。
そして名演をみせたヘンリー・フォンダはついに1982年(*1981年度)3月、第54回アカデミー主演男優賞を受賞。
しかしヘンリーは病のため授賞式に出席できず、ジェーンが代わりにオスカーを受け取り「お父さん、あなたを誇りに思う」とスピーチしています。
娘からの最高の贈り物を受け取りヘンリーが亡くなったのは、その年の8月のことでした。
主演作品の日本での題名は「黄昏(たそがれ)」。
ぜひ機会があったらご覧になって下さい。

5/24「軍艦島」

長崎市の沖合に浮かぶ端島。
島全体が石炭を掘り出す炭坑で、その独特の景観から「軍艦島」と呼ばれています。
明治から大正、昭和にかけて操業を続けた軍艦島は、1974年にその役割を終えて閉山。
そのまま無人島になってしまいました。
ところが、近年になって、この島が九州・山口の近代化遺産群のひとつとして、世界遺産国内候補に選ばれたことから注目され、この春から観光客向けに上陸できるようになりました。

当時の最先端の技術で造られた炭坑施設や高層住宅などが、35年の歳月で風化され、廃墟となりながら、現代の私たちに、日本の近代工業化の原動力となった島の歴史的価値を伝えてくれます。
しかし、35年前まで島に住んでいた人の中には、廃墟となった島の姿を観光地として見られることに複雑な気持ちをもつ方もいます。
この小さな島に、かつては5000人もの人が住んでいました。
狭い敷地に高層アパートが連なり、学校や病院、映画館もあり、海に囲まれ外界と隔絶された小さな町となっていた軍艦島。
そこでは、皆が工夫しながら、お互い助け合う、独特の絆で結ばれた暮らしをしていたのです。
親が留守にするとき、その子どもたちの世話は、頼まれなくても自然と、近所の家の人が預かってしてくれていました。
母親を病気で亡くした幼子がいました。
その子は、近所のおばさんにお乳をもらって、島ですくすくと育っていったのです。

いまの私たちの暮らしからは想像もできないご近所づきあい。
その子は大人になって「私の育ての親は、軍艦島」と振り返っています。
島全体が家族ぐるみ??そんな暮らしが廃墟の中に存在していたこと。
そして、その暮らしを思い出の故郷として大切にしている人たちがいることを、観光で軍艦島に訪れる人に知ってほしいと思います。

5/17「敗戦国に夢を与えたボクサー」

1952年5月19日。この日は、日本人初のボクシング世界チャンピオンが誕生した日です。
彼の名は、白井義男(しらいよしお)。
対戦相手には「殴られずに殴る」という徹底したスタイルで見事チャンピオンに輝きましたが、白井の名コーチとして知られるのがアメリカ人のカーン博士です。

カーン博士は、ボクシング経験もなく、スポーツにおける身体能力を研究する学者でした。
ボクシングのコーチとしては全く素人の博士が、白井の優れた俊敏性を見出したことから、自らコーチを名乗り出ます。
練習が始まると、カーンは、白井に防御の基礎ばかり教えました。
その姿は、周りの目には「外国人に同じことばかりさせられている」という風にしか映りませんでした。
それは、日本人の身体的な特徴と白井の俊敏性をうまく生かしたスタイルだったのですが、周囲からは「ボクシングらしくない」と非難されました。
それでも白井はカーン博士と二人三脚で確実に勝利を重ねていきます。

そして迎えた、世界タイトルマッチ。
王者はアメリカ人のダド・マリノです。
日本はサンフランシスコ平和条約が発効された直後でもあり、白井の挑戦は、敗戦に打ちひしがれていた日本人にとっての挑戦でもありました。
4万人の大観衆の中、プレッシャーに押し潰されそうになる白井。
カーン博士は、「自分のために戦うと思うな。日本人の誇りと希望を取り戻すために戦うのだ」と彼の背中を押し出します。
そしてついに誕生した悲願の世界チャンピオン。
その後も4度の防衛に成功し、二人の関係は、ボクシング界にとっても新たな風を吹き込みました。

引退後、白井は生涯独身を貫いたカーン博士を家族として迎え入れ、臨終の際まで看取りました。
カーン博士について白井は「記録の上では私は日本人初の世界チャンピオンですが、その生みの親はアメリカ人のカーン博士であることをいつまでも記憶しておいてほしいと思います」と語っています。

5/10「野鳥の声を届けたい」

きょう5月10日から愛鳥週間です。
福岡市のボランティアグループ「バードコール」では、野鳥の声を録音してCDを制作しています。

代表の田中良介(りょうすけ)さんは、もともと点字図書館で目の見えない人たちに本の朗読をしていたボランティアの一員。
ある日、ご自身の趣味であるバードウォッチングを通じて、みんなに野鳥の声を聴かせてあげられたらどんなにすばらしいだろう、と思いついたのがCD制作のきっかけでした。

録音機を片手に福岡県内をはじめ、ときには佐賀県や大分県へも出向いて、1年間録りためた音を70分程度に編集。
CDのジャケット制作まで行い、おもに視覚障害者の人たちに無料で提供しています。
CDは今年で5作目。
配布先は年々増え、現在、郵送や点字シールづくりなどの作業は、手伝ってくれる8名のスタッフに支えられています。
そのスタッフの中には、ご自身が全盲でありながら、自然の音を録音し続けている方もいます。
そうして出来上がったCDには、鳥の声の合間に鳥の姿や生態などを紹介する語りも入っているので、見たことがない鳥を想像する楽しさがあります。
CDを手にした方々は、鍼やマッサージの診療室でBGM代わりに流したり、家族みんなで自然の音を楽しんだりとさまざま。
病気で途中から全盲になった方からは、「森の中の風景が鮮明に思い出されて、懐かしい記憶が蘇ります」と感激の声が届くそうです。

録音が最も忙しいのは、これから野鳥の繁殖期となるおよそ1ヵ月間。
子孫を残すために全身で愛情表現をする鳥の声は、命のさえずりそのものです。

録音には必ず奥様といっしょに出かける田中さん。
仲睦まじい「おしどり夫婦」で、これからも美しい鳥の声を届け、楽しませてください。

5/3「日本のバレエの始まり」

いまや世界水準のダンサーを次々に輩出する日本のクラシックバレエ。
その始まりには、一人の外国人女性の存在がありました。

彼女の名はエリアナ・パブロバ。
ロシアの貴族の家に生まれ、バレエの殿堂・マリンスキー劇場で活躍するバレリーナでした。
しかし、1917年のロシア革命により、家族とともに祖国を逃れ、流浪の末、2年後に日本に亡命。
温かく迎えてくれた日本人に報いるため、鎌倉にバレエスタジオを開き、バレエの伝道に情熱を注ぎます。

彼女のレッスンはとても厳しいものでした。
たとえば、生徒がきつい練習に気を失って倒れると、コップの水をかけることもあったそうです。
でも、それは、日本の若者に、バレエは一朝一夕にできるものではなく、上達への道は長く厳しいことを、身をもって教えようとしていたのです。
そうして彼女の元から多くの優秀な教え子が巣立っていきました。

ところが、やがて日本が戦争に向かって突き進むと、彼女に暗い陰が忍び寄ってきました。
バレエは敵国文化だとして、白人であるエリアナは憲兵に尾行され、バレエスタジオに石が投げられるなど、嫌がらせがひどくなってきたのです。
このままでは生徒たちにも被害が及ぶことを心配した彼女がとった行動。
それは彼女自身が日本人に帰化し、さらに戦地で日本兵を慰問することでした。
中国大陸を回りながら兵士たちの心を慰めるためにバレエを踊り続けたエリアナ。
しかし、1941年に慰問先の南京で病のために帰らぬ人となりました。

戦争に翻弄されながらも生涯バレエを愛し、日本人を愛したエリアナ・パブロバ。
彼女のバレエスタジオがあった跡地には、現在「日本バレエ発祥の地」の碑が建てられています。

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