2008年7月アーカイブ

7/27「増田夏祭り」

今日は、佐賀県唐津市肥前町で、毎年恒例の「増田夏祭り」が開催されています。
明治28年、この地域に猛威をふるったコレラから人々を守った警察官、増田敬太郎(ますだけいたろう)巡査を偲ぶお祭りです。

増田巡査は当時25歳。
警察官になる夢を叶えて、唐津警察署に配属されたばかりでした。
その年はコレラが全国で大流行し、山里の高串(たかくし)地区から応援を求められた警察本部は、警察学校で優秀だった増田巡査を抜擢。
人一倍正義感の強い彼は、交通機関が何もない山道を歩いて高串地区に向かい、コレラの知識がない住民たちの先頭に立って、各家の消毒をしたり予防法を説明したりと奔走しました。
また病気が移ることを恐れる人々が、コレラで亡くなった人の遺体を運ぶことを拒んでも、彼はたった一人で遺体を背負って丘の上の墓地に埋葬しました。
しかし、不眠不休で取り組む増田巡査も、ついにコレラの病に倒れます。
高串に赴任して、わずか4日目のことでした。

彼は息を引き取る前に、「私が高串のコレラは全部背負っていきますから、みなさんは安心して、私が指導した予防法をしっかり守ってください」と言い残しました。
その後、高串地区のコレラはぴたりと治まり、増田巡査の献身的な行為に胸を打たれた住民たちは石碑を建てました。

その石碑は後に、日本で唯一の警察官を祀る増田神社となり、100年以上が経った今でも、「増田夏祭り」として地区の伝統行事になっています。
毎年、祭りが巡り来る度に、増田敬太郎巡査のことは、子から孫へと語り継がれ、人々の胸に生き続けているのです。

7/20「町の小さな観光大使」

日本で初めての修学旅行が実施されたのは、明治32年の今日、7月20日です。
山梨女子師範学校の教師と生徒22人が、奈良・京都・伊勢に出発したのを記念して、この日が修学旅行の日に制定されました。

修学旅行での楽しみと言えば、訪れた土地での人々とのふれあい。
そこで、町の特産物であるお茶を現地で出会った人々へあいさつ代わりに配ってまわるというユニークな試みを取り入れているのが、静岡県の中学校です。
子供たちは今年も「町の小さな観光大使」として、5月下旬、摘みたての新茶を持参して、京都・奈良へと出発しました。
子供たちからお茶を受け取った人々は、突然のプレゼントにびっくり!
京都のバスの中で席を譲った子供からお茶を受け取ったおばあちゃんからは、ていねいなお礼状が届きました。また、清水寺でお茶を受け取った旅行者からは広島のしゃもじが送られてきたり、その後の交流も子供たちの楽しみのひとつになっています。

そんな中で、京都で時代劇の撮影をしていた俳優にお茶を渡した生徒がいました。
俳優は、撮影で怖い顔をしていた自分に勇気を出してお茶を渡してくれた生徒のこと、お茶と一緒に添えられていた小さな手紙に、町のPRとおいしいお茶の淹れ方が書いてあったことなどを自身のホームページに綴りました。
そこには、「静岡のその町も、学校も、大好きになりました」との一文が。
やがてこの交流は、子供たちとのメッセージ交換につながり、その俳優は中学校への訪問を約束しました。

静岡県の「町の小さな観光大使たち」による修学旅行は、観光地を訪れるだけでなく、一服のお茶から広がる出会いや交流の中で、自分たちの学校はもちろん、地元や特産物にも誇りをもてる、特別な旅行でもあるのです。

7/13「星になった一貫齋」

夏の夜空に輝く無数の星・・・。
その神秘の姿を初めて天体望遠鏡で見た日本人を紹介します。

その人の名は、国友一貫齋(くにともいっかんさい)。
幕末の江戸時代に生きた鉄砲の鍛冶職人です。
旺盛な研究心にあふれていた彼が興味をもったのは、星がきらめく宇宙の世界。
当時の日本は「遠眼鏡」と呼ばれる望遠鏡はありましたが、それは測量に使うもので、天体観測をする性能はありませんでした。
そこで一貫齋は、自らの手で天体望遠鏡を作ります。

書物も指導者もない中、苦心と失敗を重ねながら1833年に完成させたのは、今日でいうグレゴリー式反射望遠鏡。
それを使って星空をのぞき見た彼は、その神秘的な姿に心を奪われ、月や惑星の天体観測に夢中になりました。
観測した土星の輪、木星のしま模様やその5つの衛星、金星が欠けている様子などを観測図に記していますが、それは実に正確な内容となっています。
また、彼は半年にわたって太陽の黒点の様子を観察して記録に残していますが、それもまた世界の天文学史上大変貴重な文献とされています。

ところが、このころ日本は厳しい日照りが続き、やがて全国で作物が取れなくなってしまいました。
いわゆる「天保の大飢饉」。
そのとき一貫齋は、片時も手放さなかった望遠鏡をすべて各地の大名に売って、そのお金で村人を飢えから救ったのです。
そのため彼の天体観測はそこで途切れ、後を引き継ぐ者もなく、やがて彼の残した記録も忘れ去られていきました。

そんな一貫齋の名がよみがえったのは、1998年。
火星と木星の間を回る小惑星が発見され、その名が「kunitomoikkansai」と命名されたのです。
その新しい小惑星を発見したのは、かつて一貫齋が飢饉から救った滋賀県の村の近くに建つ天文台です・・・・。

7/6「よみがえったピアノ」

7月6日は、1823年にシーボルトが初めて日本にピアノを持ち込んだことから「ピアノの日」と制定されています。
今日は、半世紀前の幻のピアノの話をご紹介します。

このピアノを製造していたのは、ドイツのスタインベルク・ベルリン社。
チェンバロのような美しい音色を奏でますが、製造台数が少なく、日本にはわずか5台しか入っていません。
そのうちアップライトタイプのピアノは2台だけ。
うち1台は、岐阜県の中学校にあります。

1951年、生徒たちの音楽教材にと、一番いい音色だったこのピアノを選んだのは、当時の音楽教師だった高橋先生です。
ところが、長い歳月の間にピアノはあちこち傷みだし、ついに教材としては使えなくなってしまい、最近では玄関ホールにひっそりと佇んでいました。
このピアノに親しんできた卒業生たちは「幻の音色をぜひ復活させたい」と、ピアノの修復を試みます。

しかし、修復に必要な経費は、およそ100万円。
卒業生たちと学校はひとつになってピアノ支援団体を設立し、地道な募金活動を行います。
そして今年2月、ようやく目標金額に達して、ピアノはドイツと日本の共同作業により完全修復されました。
半世紀以上も前、教え子たちの笑顔を思い浮かべながらこのピアノを選んだ高橋先生は、現在99歳。
今、この中学校で音楽教師を務めているのは、高橋先生のピアノで学んだ教え子のひとり・上田先生です。

「高橋先生から大切に受け継がれたピアノが修復されて本当にうれしい。このピアノは地域の文化財としても後世に残していきたい」と、上田先生は喜びを語ります。
幻の音色は、当時の感動のまま、再び校舎の中で響き渡りました。

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