2007年10月アーカイブ

10/28 放送分 「速記の父」

10月28日。きょうは、速記記念日です。
速記とは、会議や討論会の内容を、特殊な文字ですばやく記録する方法で、欧米では早くから普及していましたが、日本で開発されたのは明治時代。
盛岡の田鎖綱紀(たくさりこうき)がアメリカ人に教わったことがきっかけでした。

当時の記録といえば、どんなに早く書き取っても要点だけが精一杯。ところが、この速記文字は話した言葉通りに、しかもアクセントや訛りまでもが正確に再現されるので、田鎖は夢中になってこの速記法を勉強します。
しかし、英語での速記法はマスターするものの、これを日本語に応用しようとすると発音の壁にぶつかってしまい、彼の周りには「無駄な努力」と笑う人もいました。
ところがこの速記法に興味を持ったひとりの学生が、この研究を万人に知らせたいと新聞で発表したのをきっかけに、事態は一変します。
「ぜひ講習会を開いてください」という学生がひっきりなしに訪れ、田鎖は「独学で完成させるよりも、同じ志をもった仲間と試行錯誤しながら、より精度の高いものを作り上げていこう」と決心し、明治15年10月28日、日本で初めて速記法の講習会を開いたのです。
彼は、仲間や弟子とともに、より応用のきく速記法を完成させ、明治23年に開かれた第一帝国議会の議事録を、速記法によって残すことに成功し、しかも第1回から記録が残されているのは日本だけという偉業を成し遂げます。

現在、速記技術者の数は減りつつありますが、国会議事録に限らず、落語やラジオ講演、裁判記録など、速記によって残された記録は数多く、時代の移り変わりを正確無比に残してきた功労者たちには頭が下がる思いがします。

10/21 放送分 「老犬ホーム」

お年寄りの心を癒すために老人ホームで犬を飼っているという話を聞きますが、その反対に、年老いた犬たちの世話する「老犬ホーム」と呼ばれる施設を作った人たちがいます。
北海道の盲導犬協会の人たちです。

盲導犬はおよそ8か月の訓練を終えて、目の不自由な人のために働きますが、10歳を過ぎると老化が早まります。
犬の10歳は、人間でいえば60歳。足が弱まり、目や耳も悪くなっていき、やがては盲導犬としての仕事がきちんとできなくなります。
ところが、そんな盲導犬は自分から「辛いから仕事をやめさせてほしい」と訴えることはできません。
それどころか、飼い主と少しでも長くいたいという思いから、衰えた体を奮い立たせ、無理してでも元気なところを見せようとするのです。

そこで、盲導犬協会では12歳を目安に、犬を引退させることにしました。
引退した盲導犬はふつう民間家庭のボランティアが引き取り、心やさしいファミリーの中で穏やかな余生を過ごすことができます。
でも、何年間も生活をともにした元の飼い主が気軽に会いに来れるようにと、29年前の1978年、北海道盲導犬協会が訓練所の中に日本唯一の老犬ホームを作ったのです。

ここでは専任の担当者が、24時間態勢で犬たちの世話をし、介護をします。
ホームの中は空調設備も整っていて快適。そして犬にとって何より嬉しいのは、昔いっしょに訓練を受けた同級生たちと一緒に過ごせることです。
遠い日の厳しかった訓練を思い出しているのでしょうか、夢見るような顔つきで仲間たちとひなたぼっこをしたり散歩をしたりして、かつての盲導犬たちが穏やかに暮らしています。そんな彼らを一生懸命世話し、温かく見つめるスタッフたちは、顔をほころばせています・・・・。

10/14 放送分 「民俗学発祥の村」

全国でも珍しい焼畑農業がいまも行われている宮崎県椎葉村。山深いこの村は、「民族学発祥の地」としても知られています。
それは、今からおよそ100年前、当時、農商務省の役人だった柳田国男がこの地を訪れたことから始まりました。

明治41年、農業政策の一環として九州一円を調査していた柳田は、椎葉村で古代からの原始的な焼畑農業が存続していると聞き、本来視察ルートには入っていなかったこの村へ、山道を歩いてやってきます。
初めての東京からのお客様に驚きながらも、村長と村人たちは彼を手厚くもてなし、村の暮らしぶりを丁寧に説明しました。
それは、稲作が伝来する以前のような暮らしぶりで、すっかり感激した柳田は村長の案内で、一週間村の民家を泊まり歩きました。そして、村人たちが熱心に語る、イノシシ狩りにまつわる猟のやり方や儀式、しきたり、焼畑の技術、そして村に伝わる古い言葉や言い伝えなどを、興味深く見聞きします。
時代は急速に近代化が進んでいた頃。こうした記録をいま残さなければ、日本の伝統文化は失われてしまう、という危機感があったのかもしれません。

翌年、この貴重な椎葉村での体験は一冊の本になりました。
それは同時に、民族や地域社会の生活や風俗を研究するという新しい学問、「民俗学」が誕生した瞬間でもあります。
それ以後、彼は全国各地の方言から昔話にいたるまで、あらゆる資料を収集し、生涯を通じて100冊を超える民俗学の著書を残しています。

柳田国男は語っています。
「書物で学ぼうとしたら、一生あっても足りない。現地を歩いて、人々の思想にふれることが大切である」と。
椎葉村でのふれあいが、後世に残る学問の第一歩となったのです。

10/7 放送分 「松尾あつゆき忌」

五・七・五……俳句の世界では、たとえば「芭蕉忌」というように、優れた俳人の忌日(きじつ)、つまり命日を季節の言葉に当たる季語として、その人と作品を偲ぶ句会が行われたりします。
今週、10月10日は、長崎の人たちにとって忘れられない俳人の忌日です。

松尾あつゆき。明治37年、長崎県北松浦郡佐々町の生まれ。長崎商業学校の教員を務めながら、自由律俳句を学びます。
自由律俳句とは五・七・五のリズムにこだわらない俳句。漂泊の俳人・種田山頭火の作品がよく知られていますが、若き日の松尾は、先輩に当たる山頭火を長崎に迎えて、句会を開いたりしました。
そんな穏やかな松尾の日常を根底から変えたのが、原爆です。
仕事中に自らも被爆した松尾は、破壊された長崎の町を家族が待つ我が家へ駆け付けますが、そこに待っていたのは瓦礫の海と、その下で死の淵に喘いでいる妻と3人の子供だったのです。

原爆の投下が8月9日。翌10日に家族を発見。11日、3人の子の亡骸を焼く。13日、妻が力尽き、15日にその亡骸を焼いて一人弔う……この数日間に体験した家族との壮絶な別れを、翌年、彼は絞り出すように自由律の俳句にして表現していきました。
後にこれらの句は「原爆句抄」として出版され大きな反響を呼びますが、松尾自身は、この悲しみから逃れるように、戦後になって再婚し、遠く長野県に転居して自然の情景を俳句にする暮らしを始めます。

ところが、数年して彼は再び長崎に戻ってきました。
その理由を、「長崎にいると、亡き子供たちが我が胸の中に移り住んでいることを感じるからだ」と語ったそうです。
以後、彼はずっと亡き家族への祈りに残りの生涯を費やし、昭和58年10月10日、長崎で79年の人生を閉じました。

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