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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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10/7 放送分 「松尾あつゆき忌」

五・七・五……俳句の世界では、たとえば「芭蕉忌」というように、優れた俳人の忌日(きじつ)、つまり命日を季節の言葉に当たる季語として、その人と作品を偲ぶ句会が行われたりします。
今週、10月10日は、長崎の人たちにとって忘れられない俳人の忌日です。

松尾あつゆき。明治37年、長崎県北松浦郡佐々町の生まれ。長崎商業学校の教員を務めながら、自由律俳句を学びます。
自由律俳句とは五・七・五のリズムにこだわらない俳句。漂泊の俳人・種田山頭火の作品がよく知られていますが、若き日の松尾は、先輩に当たる山頭火を長崎に迎えて、句会を開いたりしました。
そんな穏やかな松尾の日常を根底から変えたのが、原爆です。
仕事中に自らも被爆した松尾は、破壊された長崎の町を家族が待つ我が家へ駆け付けますが、そこに待っていたのは瓦礫の海と、その下で死の淵に喘いでいる妻と3人の子供だったのです。

原爆の投下が8月9日。翌10日に家族を発見。11日、3人の子の亡骸を焼く。13日、妻が力尽き、15日にその亡骸を焼いて一人弔う……この数日間に体験した家族との壮絶な別れを、翌年、彼は絞り出すように自由律の俳句にして表現していきました。
後にこれらの句は「原爆句抄」として出版され大きな反響を呼びますが、松尾自身は、この悲しみから逃れるように、戦後になって再婚し、遠く長野県に転居して自然の情景を俳句にする暮らしを始めます。

ところが、数年して彼は再び長崎に戻ってきました。
その理由を、「長崎にいると、亡き子供たちが我が胸の中に移り住んでいることを感じるからだ」と語ったそうです。
以後、彼はずっと亡き家族への祈りに残りの生涯を費やし、昭和58年10月10日、長崎で79年の人生を閉じました。