公園や街中をジョギングする女性たち。今ではごく当たり前の風景ですが、そのパイオニアは、日本初の女性メダリスト人見絹枝(ひとみきぬえ)さんです。
明治40年生まれ。岡山の高等女学校の競技大会で走り幅跳びに出場し、4m67cmという当時の日本女子最高記録を跳んだことから、陸上競技に身を投じていきました。当時、女性は内股で楚々と歩くのが美徳とされていた中で、彼女は太ももを露にして走りました。どこに行っても好奇と非難の目。そんな視線を跳ね飛ばしながら彼女は世界の桧舞台に上っていきました。
昭和3年のアムステルダム・オリンピック。陸上競技に初めて女性の参加が認められ、人見さんは日本選手団ただ一人の女子選手として乗り込みます。
先の選考レースで世界新を出していた100m走では残念ながら敗退。「このままでは日本に帰れない」と、彼女は急きょ、一度も走ったことがない800m走に挑みます。
結果は2位入賞。ゴール後に意識を失うほど凄絶なレースで銀メダルを獲った人見選手を、アメリカの新聞は次のように表しています。
「日本娘といえば着物を着て、茶道と生け花に忙しく、繊細で弱々しい体をしていると考えていた。しかし、人見はスピードと精神力において欧米諸国の選手たちを打ち破ったのだ。我々の日本女性観は間違っていた」
人見選手はまた、全国を講演して女性スポーツの広がりや進歩を訴えつづけ、現役選手でありながら、自分の練習時間を削って後進の育成に力を注ぎました。
昭和5年、国際女子競技大会がチェコのプラハで開催。出場した日本選手は6人に増え、人見自身も走り幅跳びで優勝します。
その栄誉を最後に、1年後、彼女はこじらせた肺炎のために24歳という短い生涯を閉じました。
プラハの郊外には人見選手の活躍を讃える石碑が建てられ、「愛の心をもって世界を輝かせた女性に感謝の念を捧ぐ」と記されています。