2007年2月アーカイブ

2/25放送分 「幸せのちから」

いよいよアカデミー賞の発表が、アメリカ時間の2月25日、日本時間の明日あります。
今年は、助演女優賞に菊池凛子さんがノミネートされて、49年ぶりに日本人女優の受賞となるか注目されています。
主演男優賞でノミネートされている、ウィル・スミス。彼が主演している映画は、アメリカの実話を元に製作され、日本では1月に公開。沢山の観客を動員し、多くの感動を与えています。

父と子の愛と希望に満ちた映画「幸せのちから」。1980年代、アメリカ・サンフランシスコを舞台にしたクリス・ガードナーの物語です。
セールスマンからホームレスに。帰る家も食べるものもない日々。その中で決して手離さなかったのは、ひとり息子。
愛すること、努力すること、信じること、がむしゃらに本気で生きること。そして決して諦めないこと。それを実践し、億万長者になったガードナー。
現在、シカゴに本社を置く株式投資会社:ガードナー・リッチ&カンパニーの社長兼最高経営責任者を務め、売り上げのおよそ10%を教育事業に寄付しているそうです。彼はこのように言っています。「アメリカの独立宣言に生命、自由、幸福の追求の権利が書かれている。幸せって追求するだけのものか?決して得られないのか?何故彼は「追求」という言葉を敢えて入れたのか」と。

「幸せになれますように」とか「幸せがやってきますように」と、ただお願いするばかりの人が増えている現代。彼の生き方は、忘れかけていた幸せに対する探究心と行動力を蘇らせてくれます。
さて、今年のアカデミー賞は、この実話が映画となった「幸せのちから」を自ら製作も買って出て主演もしたウィル・スミスが受賞となるか。発表が楽しみです。

春が待ち遠しいこの季節。今あちこちで賑わっているのが「蔵開き」です。
冬の寒い時期にピークを迎える日本酒の仕込み。今年もおいしい新酒ができたことを、蔵元だけでなく地域の人たちと一緒に祝うのが、蔵開きです。

日本画家の巨匠・横山大観。彼はまた大の日本酒好きとしても知られていました。その大観が飲んでいたのは、広島県の、とある蔵元が造るお酒。
「こんな美味しい酒を造ることは、私の描く絵など足元にも及ばない芸術だ」
その言葉を聞いた蔵元は感動のあまり、大観が飲むお酒を一生分進呈することを申し出たそうです。
ところが、この約束はとんでもないものとなりました。
大観にとってお酒はほとんど主食。一日に2升3合以上も飲むほど酒豪だったのです。「まさか、こんなに飲まれるとは」と呆れながらも、約束は約束。蔵元は大観のために、瓶ではなく四斗樽のお酒を毎週、広島から東京まで送り続けました。商いをする酒造蔵としては大変な損失です。
でも大観先生もさるもの。美味しいお酒のほんのお礼として毎年、自らの絵を蔵元へ送っていました。

お酒と日本画のユニークな行き交いは、昭和33年2月、大観が91歳で亡くなるまで30数年間も続きました。
死ぬ間際まで好きなお酒を飲み、長寿をまっとうした大観。
いっぽう広島の蔵には大観から寄贈された30数点の絵が、いまも大切に保存されています。

酒豪の横山大観が提供してもらった一生分のお酒と、30数点の大観の作品――いったいどちらが価値があったのか? それを比べるのは、野暮なことです。お互いの作り出すものに感動した二人が交わし合ったのは、モノではなく「気持ち」でした。気持ちを天秤にかけることはできませんよね・・・。

今から53年前の2月、歴史に残る大スターが2人来日しました。
アメリカを代表する偉大な野球選手:ジョー・ディマジオ。そして、
アメリカの大女優:マリリン・モンロー。2人は2月1日に結婚。
日本の球団の招きで、ディマジオが野球指導をする為の来日に合わせ、
新婚旅行も兼ねモンローも日本を訪れました。訪れた土地は、東京、名古屋、
大阪、神戸、広島、福岡です。

東京滞在中の出来事です。
野球にそれほど関心がなかったモンローは、ただひとり、ホテルで待つ日々でした。そこへ、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問して欲しいとの依頼がありました。暇をもてあましていたモンローは快く承諾。反対するディマジオとけんかするように韓国へ行きました。
当時27歳だったモンロー。その前の年に映画「ナイアガラ」で世の男性の注目を浴びたモンローウォークを披露。また映画「七年目の浮気」では、スカートが吹き上がる有名なシーンで一躍スターになったばかりでした。しかし彼女は、スターという座に居座ることなく戦車に乗り、アメリカの兵士たちが集まる場所へ向かいました。当時はとても寒く雪が降っていました。オーバーオール姿で舞台裏にいたモンロー。音楽がスタートすると、それをかき消すほどの歓声。早く出てきてくれとモンローの名前を叫び続ける兵士たち。モンローは、すぐさまシルクのドレスに着替えました。雪が舞う寒さの中、うんとローネック、しかもノースリーブの衣装で舞台に登場したモンローは、兵士たちの為に歌い踊り、兵士たちも大喜び。モンローは後にこう言っています。「自分が一番輝ける場所を見つけたような気がしたわ」と・・・。

1人のスターとしても女としても、そして人間としても努力を惜しまなかった彼女。ディマジオの計らいで彼女のお墓には、今でもアメリカンビューティーという赤いバラが供えられています。

2/4放送分 「春一番の語源」

きょうは立春。梅の便りも聞かれる季節の変わり目です。
とはいえ、私たちが体感的に春の訪れを最初に感じるのは、春一番といわれる南寄りの強い風が最初に吹く時ではないでしょうか・・。
今からおよそ150年程昔、安政6年2月13日。
その日は快晴で絶好の出漁日和。玄界灘に浮かぶ島:壱岐の漁師たちは小さな漁船に乗り込んで五島沖に向かいました。
船は順風に恵まれ予定の時間に到着。漁の準備に取りかかりました。
そのとき、一人の漁師が南の水平線に黒い雲が湧き昇るのを発見して「春一(ハルイチ)だ!!」と叫びました。壱岐の漁師たちの間では昔から春先に吹く南からの暴風を「春一」と呼んで恐れていたのです。
この叫びを聞くやいなや、すべての船は仕掛けたばかりの縄を切り捨て、あわてて引き返そうとしました。
ところが、帆を張って手漕ぎで進むだけの当時の漁船。たちまち強烈な風とともに海は荒れ狂い、漁師たちはなすすべもなく、舟もろとも海中に消えていきました。その数53名。漁村の一集落がまるごと壊滅してしまうほどの犠牲者を出してしまったのです。

その後地元では、毎年2月13日はどんなに天候が良くても漁に出ず、犠牲者の冥福を祈って過ごしたそうです。
そしてまた、この悲劇から、春先の強い南風のことが「春一番」という名前で全国に知られるようになったのです。

現在、壱岐の郷ノ浦町の海辺には、春一番の語源発祥の地を示す「春一番の塔」が建っています。3月には「春一番フェスタ」という港祭りも開催。春の訪れを喜ぶお祭りですが、毎年祭りに先立って、春一番の犠牲となった人たちの慰霊碑に花が手向けられています。

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