2007年1月アーカイブ

1/28放送分 「北原白秋の子守唄」

「からたちの花」「赤い鳥」「この道」「待ちぼうけ」「雨降り」・・・・これらの童謡を作詞したのは、北原白秋。1885年:明治18年、1月25日に熊本県玉名郡南関町で生まれ、その後は福岡県柳川市で育ちました。彼が育った柳川市沖端の白秋生家では、白秋生誕祭が行われました。今年で54回目。生きていれば122歳。彼が作った代表的な曲も歌われました。童謡作家であり、詩人、歌人として有名な白秋。
生まれて初めて母親の声で耳にした子守唄・・・。それは。彼がつくった子守唄という方も多いのではないでしょうか・・・・?

子守唄は世界各国様々な曲がありますが、日本の代表的な曲は、時には悲しい内容だったりします。江戸時代頃、少し大きくなった子供は子守奉公に出されていました。他人の子守をしながら、自分の親へ会いたい思いが託されていたからです。
でも北原白秋の「ゆりかごのうた」は作曲家:草川信のメロディーにと共に実に美しい子守唄です

ゆりかごのうたを カナリアが歌うよ  ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

ゆりかごのうえに びわの実がゆれるよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

ゆりかごのつなを木ねずみがゆするよ  ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

ゆりかごの夢に黄色い月がかかるよ   ねんねこ ねんねこ ねんねこよ 

この曲を耳にすると、小さい頃受けた愛情が蘇ってくる・・・・・。また
歌うお母さん自身も、この曲を歌うことで心が癒されるといわれています。
これからも、愛する子供に心をこめてやさしく歌い継がれて欲しい名曲です。

1/21放送分 「中村先生」

九州は雪が少ないと思われがちですが、山間部では大雪に見舞われることは珍しいことではありません。佐賀県の背振山系にある北山(ほくざん)小学校は、全校児童50人足らずの小さな学校。雪が降ると子どもたちが雪合戦や雪だるま作りで楽しく遊びます。
ところで、この小学校では、3学期が始まって間もない1月下旬に、この学校だけの特別な行事があります。それは「中村先生を偲ぶ会」。もう40年以上も続く大切な催しなのです。

中村富可男(ふかお)先生。「責任感が強く、やさしい、いい先生でした」と今でも地元のお年寄りが思い出を語る、北山小学校の教諭です。
昭和38年の冬、背振の山に未曾有の大雪が降り続きました。
当時の山里では、各集落から6、7キロの道のりを子どもたちは歩いて通学していました。そこにこの大雪。中村先生は子どもたちの身を案じて、学校から集落まで付き添って送り届けていました。

1月26日。この日も先生は最後に送り届けた子どもの家で火に当たって暖を取り、降り止まない雪の中に再び出ていきました。
向かった先は我が家ではなく、何キロも離れた隣の集落への山道。やはり子どもたちの通学路の様子が心配で調べに向かったのです。
そして、それは村人が見た中村先生の最後の姿となりました。
雪の中から先生の体が発見されたのは数日後でした。

小学校の敷地に建つ碑には、中村先生が遭難する4日前に詠んだ自作の歌が刻まれています。
「休校の知らせを終えて帰途につく 路上の子らはスキー楽しむ」
子どもたちを守ることに身も心も尽くした一人の教師の話が、山里の小さな小学校の歴史に刻まれているのです。

1/14放送分 「愛と希望と勇気」

1956年(昭和31年)南極観測船「宗谷」が東京港を出発しました。およそ2ヶ月、2万キロの旅を終えようやく南極海域に到着。そこで越冬隊員として南極に残されたのは、11人の隊員と犬ゾリ犬としての役目を果たすカラフト犬15頭でした。彼らは昭和基地で仕事と生活を共にし、次の越冬隊員たちの到着を待つのです。

翌年、第2次越冬隊を送り込む為、再び「宗谷」は南極へ向かいましたが、厚い氷に行く先を阻まれて断念。11人の第1次越冬隊員はヘリコプターで救助されましたが、15頭のカラフト犬は、救出することができず、やむなく置き去りにされました。隊員たちは、1ヶ月分の食料を犬たちに与え、その1ヶ月の間に、自分たちか次の越冬隊が必ず迎えにくるとの希望を胸にロープで犬たちをつなぎ、万感の思いで基地を去ったといいます。

しかし、1ヶ月の間に迎えに行くことはできず、1年後、第3次越冬隊が南極観測船「宗谷」に乗り、南極の昭和基地の沖合数百メートルに辿り着きました。基地の様子を見に飛び立ったヘリコプターから「宗谷」へ、2頭の犬を発見との連絡。その2頭とは、前の年に置き去りにされたカラフト犬のうちの2頭だったのです。ヘリコプターが着陸すると、駆け寄ってきた犬たち。成長してどの犬かわかりませんでしたが、隊員が次々と犬の名前を呼びかけると、「タロ」の名のところで反応して尻尾をふったそうです。そして、もう1頭はその兄弟犬「ジロ」と判明。2頭は、基地に置いてきた食料や死んだ犬を食べた痕跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて命をつないでいたと推測されています。

その「タロ」と「ジロ」が発見された1月14日、隊員たちの愛と希望、そしてタロとジロの勇気と希望を讃えて、「愛と希望と勇気の日」とされました。

1/7放送分 「成人式発祥の村」

明日、1月8日は成人の日。それまで1月15日に固定されていた成人の日は、2000年から1月の第2月曜日に変わりました。

でも、全国には、実際の成人式を正月の三が日に行う市町村があります。
宮崎県の諸塚村もそのひとつ。山林が95%を占める山深い里で、若者のほとんどが県外の都会に出ているため、彼らが揃って村に集まる正月を選んでいるのです。

ところで、成人の日が制定されたのは昭和23年ですが、諸塚村ではその2年前から独自に成人祭を実施。10日間の合宿で大人のための講座を行ない、最終日に新成人全員に修了証書が手渡されるというものです。
一説では、このことを知った文部省が成人の日制定に動き出したとか。
つまり、諸塚村は、成人式発祥の地なのです。
全国に先駆けて成人式を始めた中心人物は、当時の村長・藤井長治郎さん。
彼は、お酒が一滴も飲めないのに、頼まれれば喜んで宴会に出て、得意の隠し芸を披露したり、いつも風呂敷包みを背中に村中を歩き回る人なつっこさ。そして何よりも、我が身より他人に尽くした人柄が、亡くなったいまもなお多くの村民に語り継がれています。
そんな藤井村長が村を挙げて成人式を始めた理由は、「村の発展は、人づくりだ」という信念です。

10日間の合宿という成人式は、当時の村の予算ではとても賄いきれません。
藤井村長は、招いた講師の滞在費などを私財から捻出し、また寄付集めにも走り回ったそうです。
ふるさとの人づくりに一途に取り組んだ村長。その郷土愛は、県外に住みながらも、成人式には、そのほとんどが村に駆け付ける今の若者たちにも受け継がれているようです。

アーカイブ