2007年3月アーカイブ

3/25放送分 「ベートーベン」

ドイツの偉大なる作曲家ベートーベン。
今から180年前の明日、3月26日、56歳の生涯を終えました。
彼は、数々の名曲を残していますが、その人生は決して楽なものではありませんでした。お金を目的にした半ば強制的な音楽教育の元、7歳で初の演奏会。天才少年と脚光を浴び、10代には、一家の家計を支えるようになりました。しかし、最愛の母が亡くなり、父は酒に溺れ、幼い2人の弟の面倒をみることになったベートーベン。20代後半から耳が聞こえにくくなり、ついには、ほとんど何も聞こえない状態になってしまいました。でも、ピアノに耳をつけて骨の振動でリズムを感じ、心でメロディーを奏で、そこから数々の名曲を生み出します。

「音は聞こえないのに、心にはっきりメロディーが流れている。次々に押し寄せる運命に負けてなんかいられない」。そんな想いで完成したのが、「交響曲第5番 運命」。そして、耳が聞こえない為、オーケストラの指揮もうまくできなくなったベートーベンが最後に作った曲は、初めて人の声を入れた合唱つきの「交響曲第9番」。初演は、80人のオーケストラ、100人をこえる合唱団を前に、彼は指揮者の隣に座り、オーケストラの方を向いていました。演奏が終わり、指揮者はベートーベンの腕をそっと取って観客の方を向かせました。するとそこには、総立ちになって熱狂的に拍手する観客の姿。感動のあまり涙する人の姿もありました。

彼が残した沢山の名曲は今も呼吸しています。
特に、最後に作曲した「交響曲第9番」第4楽章はシラー作詞の「歓喜の歌」として様々な場面で歌い継がれています。それは「世界の平和を願う内容」。
ベートーベンが生涯をかけて伝えたかったこと、それは、希望と平和と愛だったのかもしれません。

3/18放送分 「集団就職列車」

いまから半世紀前の3月。「ホタルの光」が流れているのは、学校の卒業式ではなく、駅のホームでした。
高度成長を遂げていた昭和30年代の日本。国の発展を黙々と下支えしたのが、「金の卵」と呼ばれる、地方出身の中学卒業生たちだったのです。
当時、地方の農村漁村の子どもたちの多くが高校に進学できず、好景気で仕事がいくらでもある都市部の中小企業に送られていました。
そのため、全国各地で仕立てられたのが「集団就職列車」なのです。

出発間際のホームでは、大勢の見送りの人たちが声を枯らして別れの言葉をかけ、窓の中の子どもたちは、皆一様に不安と希望が入り交じった複雑な顔で親の言葉に黙って頷くばかり。
まだ15歳の少年少女たち。集団で列車に乗っても、都会に着けば、一人一人ばらばらになって各々の就職先に引きとられていくのです。そんな心細さを親に見せられないと、ひたすら涙を我慢していた子供たち。
しかし、やがて列車が出発し、見送りにきた親や友だちの姿が見えなくなると、堪えきれずに次々と泣き出す子がほとんどだった……と語るのは、当時集団就職列車に乗務したある国鉄OBの方の話です。

そして、ひとしきり泣きじゃくると、やがて母親が作ってくれたおにぎりや弁当、持たせてくれたお菓子を食べ続けました。
寂しさと不安を紛らわせるように、ひたすら食べていたようです。
中には、食べ過ぎて腹痛を起こす子もいました。
見ず知らずの土地で、一人で生きていく子どもたちは、食べ続けることで家族との絆を夢中で抱きしめていたのかもしれません。

毎年、国鉄乗務員の胸を詰まらせたこの光景。「集団就職列車」が廃止されたのは、高校進学率が90%を超えた昭和50年のことです・・・・。

3/11放送分 「30人31脚物語」

昨年テレビ朝日主催で行われた「小学校クラス対抗30人32脚」。
横一列に並んだ30人以上のチームが二人三脚の要領で50メートル走のタイムを競うというものです。ゴールは最後の選手が50メートルを完全に通過した時点。転んでもそこから再スタート。選手たちは隣の選手と足をひもで結び、肩を組み、心をひとつにして50メートル走に挑みます。

全国的にもレベルの高い福岡佐賀地区予選を突破し、夏に全国大会の会場:横浜アリーナへ向かったのは柳川市立昭代第二小学校の6年生たち。前年、同じメンバーで出場したものの、地区予選で転倒し。タイムオーバーで惜しくも失格を味わっただけに、今回地区代表となったことを喜ぶ反面、接戦で惜しくも負けたライバルたちの為にも負けられないと、目標は、優勝ただひとつ。
予選のブロック別では2位で通過。準々決勝、準決勝、そして決勝とコマを進めますが、体力精神力も限界・・・・・。全員で揃えた黒のTシャツには「一心同体」という文字・・・。今まで辛い練習も乗り越え頑張ってきた自分たち、支えてくれた人たちの為にも負けられない・・・・・!!
30人の生徒たちは、呼吸を整え、心と体をひとつに全力疾走!!
そして、念願の全国1位を獲得しました。優勝した瞬間はたくさんの涙が流れてきました。その裏には、嬉し涙、達成感の涙、感謝の涙・・・・。前年の地区予選失格の悔し涙があっただけに全国優勝の涙はまた格別の想いがあったのでしょう。

優勝の背景には、チームを引っぱる田中博文先生が5年間かけてきた研究もありますが、あくまで「主役は子供たちの努力」と言いきる田中先生。

もうすぐ卒業式を迎える子供たち。その小さな胸には「自信」と「絆」という大きな宝が今後の人生の生きる力になるでしょう・・。

3/4放送分 「阿蘇の野焼き」

春の足音が日ごと高まってくるこの時期。熊本県の阿蘇では「野焼き」が始まります。阿蘇の雄大な草原は、実は、ありのままの自然ではありません。
何百年も昔から野焼きが行われてきたことで、山が森林にならず、現在ある美しい草原が維持されてきたのです。

山まるごとを安全に焼くためには大勢の人手が必要ですが、それを阿蘇の人々は「舫い」(もやい)の精神で守ってきました。
「舫い」とは、船と船をお互いに綱でつなぎ止めること。広い牧草地を皆で共有し、お互いの暮らしを助け合い、野焼きには村人総出で当たってきたのです。
ところが、1960年代になると農業の近代化で牛馬が減り、牧畜農家も減っていくと、人手不足のために野焼きができない所が増えていきました。
このままでは阿蘇の美しい草原が消えてしまう・・・。 
そこで立ち上がったのが、ボランティアです。
野焼き作業の研修を受け、宿泊費も自己負担しなければならないのに、高校生や主婦、お年寄りまでが、毎年何百人も九州中から駆け付けます。
その理由をボランティアの一人はこのように語ります。
「都会に住む私たちも、仕事で疲れて阿蘇に来ると癒される。草原を生き返らせることは人間を生き返らせること。皆の宝をみんなで守っていきたい」
これに対して地元の人はこう語りました。
「阿蘇の仲間たちの舫い精神はだんだん薄れてきたが、その代わり、野焼きを通じて都会の人たちと交流でき、そこから多くのことを私たちも学んだ。これは阿蘇の新しい舫いの姿なのかもしれない」
大勢のボランティアの手伝いによって野焼きされた阿蘇の山々に広がるのは、黒々と焦げた大地。それが一雨ごとに青みが増え、やがてキスミレやハルリンドウなど野の花が芽吹いてきます。

何百人という人たちの舫いの力で、今年も阿蘇に春がやってくるのです。

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