2005年10月アーカイブ

10/30放送分 「千羽鶴」

今週木曜日11/3は文化の日。
日本の伝統的な文化のひとつに、折り紙があります。
折り紙の歴史は詳しくはわかっていませんが、平安時代に公家、鎌倉時代に武家に広まり、庶民に親しまれるようになったのは、江戸時代といわれています。世界で最も古い遊びの折り紙のテキスト・1797年に発行された「千羽鶴折形」のはしがきには、「一羽の鶴に千の寿があるのなら、千の鶴には百万の寿あり・・・」とあります。

千羽鶴が世に広まったきっかけ・・。それは、今からちょうど50年前の 1955年秋、原爆症で12年の人生を閉じた少女、佐々木貞子(ささきさだこ)さんの話が元になっています。貞子さんは、2歳の時、広島市内の自宅で被爆し、小学6年生の時白血病で入院しました。「千羽鶴を折れば、願いが届く」と聞き、病気が治るように祈りながら、薬の包装紙やお見舞いの品の包装紙で貞子さんは鶴を折り始めました。しかし、644枚目を折ったところで亡くなり、残りの356枚は彼女の同級生によって折られ、彼女と一緒に埋葬されました。
以来、千羽鶴は、病気回復や平和のシンボルになり、今や、合格祈願や試合に勝つため、商売繁盛など、様々な想いや願いが込められるようになりました。そのひとつひとつには、それを折った人の数だけ願いがぎっしりつまっています。
千羽の鶴を折るのは、とても時間がかかります。ただひたすらその人のことを想いながら、時間をかけてこつこつと鶴を折り、願いを重ねる・・・。大変な作業ですが、もらった人は言葉以上のものを感じているようです。

時間をかけることを忘れかけている世の中・・・。家族や友人の為に「千羽鶴」・・・、折ってみませんか?きっとあなたの想いも届くはずです。

10/23放送分 「ハイパーレスキュー隊」

1年前の今日、10月23日は、新潟県中越地震が起きた日です。
そして地震発生4日後、当時2歳の男の子が、長岡市の川沿いで、土砂に埋まった車の中から助け出されたことは、日本中を驚かせ、感動させた出来事でした。その時活躍したのが、東京消防庁のハイパーレスキュー隊。

16名のハイパー隊を指揮した清塚部隊長は、余震が続く危険な状況での捜索で、「岩や土砂が再び崩れたら、手足の1本や2本は折れてもいい。川に飛び込め!命だけは助かれ!」と言っていたそうです。
現場は、頭上にせり出した不安定な岩石と木の枝・・。足を踏み入れた巻田隊長は、「正直言ってこの状況では、人がいても生存は難しいのでは・・」と思ったほどでした。
押しつぶされた車の状況を確認しながら、名前を呼びかけていると、小さな隙間から巻田隊長の耳に、声にはならないかすかな音が届きました。「無線を止めろ!ヘリを遠ざけろ!」。隊長は「生きている!生きている!!絶対に助けるんだ!!!」と自分に言い聞かせました。隊員らと共に、慎重に手で土砂を取り除き、隙間を広げていくと、小さな子供の手を発見しました。車と岩の間の僅かな隙間に入ることを志願したのは、小柄な田端隊員。小さな隙間の中で声もなく、おぼつかなく立っている男の子を見た時は、「一刻も早く出してあげよう!この気持ちしかありませんでした。」と後に語っています。田端隊員から男の子を受け止めた隊員は、思わずぎゅっと抱きしめたそうです。その瞬間、現場の救急隊員らからは、拍手と歓声が上がったといいます。

小さな命を見つけたのは、ハイテクな機材ではなく、隊員の耳と目でした。そして隊員たちの熱い想いとチームワークなしには、これほど小さな命の力強さと尊さを痛感することはなかったでしょう。

10/16放送分 「開かれた食の学校」

食欲の秋。蒸し暑い夏の空気も心地良い秋風に変わり、お米や魚、野菜や果物などがおいしい季節になりました。
各地で盛んに行われている村祭りは、今年の収穫に感謝し、来年もまた、いろんな作物がたくさんとれることを祈る意味があります。
おいしい料理を口にできる感謝の気持ちはあっても、収穫に感謝することは普段忘れているかもしれません。最近は、「玉ねぎの皮をどこまで剥いても実がでてこない」とか「お店で売っている魚の切身がそのまま海や川で泳いでいる」という子供もいるそうです。秋は食べるだけでなく、いかに調理するか、どのような食材を使うのか、その食材はどんなふうに育ち、とれるのか学び、収穫に感謝するいい機会かもしれません。

障害者と健常者が一緒に寝泊りしながら、コメや野菜作りを学ぶ食の学校「ふれあい農園塾」が先月(9月)、徳島市にオープンしました。
この塾は、障害者の自立を支援する農場を運営している、徳島市のNPO法人「いのちのさと」が開きました。参加者は「いのちのさと」が支援する障害者たちと協力して、農家から借りた水田と畑を使って、有機農法の専門家の指導でコメやキュウリ、ニンジン、ミカンなどを栽培します。
「農業の経験や知識がない人でも気軽に親しんでもらいたい」ということで、年会費1000円と、種や肥料など農作業に必要な費用を払えば、いつでも参加できます。農作業を通して食の大切さを知り、障害への理解を深めてもらうのが目的だそうです。農場が、いろんな人の社交場になるのが夢だとか。

「食べる」という漢字は、人の下に良いと書きます。
開かれた農業塾で人と人の良い関係を築き、人に良い食物を育てる・・・・。体も心も育まれることでしょう。
それこそ究極の「食育」かもしれません。

10/09放送分 「白い船」

島根県出雲市の小高い丘の上に、木造2階建ての小学校が建っています。眼下には、日本海の真っ青な海・・・。全校生徒わずか11人の、塩津(しおつ)小学校です。今から7年前の平成10年、毎日同じ時間になると、教室の窓から塩津沖に白い船が見えていました。「どこに行く船なのかな?」子供たちの心に疑問が生まれました。やがて、この船は、新潟県直江津港と福岡県博多港の間を往復する九越フェリー「れいんぼう」とわかりました。早速5、6年生が質問状を送ったところ、船長や乗組員から、質問の答えと、船内の案内ビデオ、乗船記念のキーホルダーが届き、子供たちと、フェリーの乗組員との交流が始まりました。それからは、真っ白な船が見えると、みんな教室の窓に集まり「おーい!」と夢中で手や旗を振ったり、FAXを送ったりしていました。返事がくると、子供たちは大喜び。そのうち子供たちは、だんだん「あの船に乗ってみたいなぁ」という夢を持つようになりました。保護者や地域の人たちが一生懸命になり、船会社も「船は子供にとっては夢を乗せて走るもの。できるだけ、子供たちの希望に応えてあげたい。」と協力してくれたそうです。そして、その年の夏、とうとう船に乗ることができました。今まで交流していた船長や乗組員の皆さんと直接会えた喜び・・・。船から、自分たちの小学校を見た感動・・・。そして、船内には、「塩津小学校コーナー」があり、今までの交流で送った懐かしいものが大切に飾られていたことが何よりも嬉しかったそうです。

今年の夏、子供たちは4年ぶりに乗船したそうです。子供たちから、新たな世代となっても、後輩の子供たちへ受け継がれる真っ白な船との交流。「思いは届き、夢は叶うもの・・・」それこそが、子供たちにとってかけがえのない「宝の思い出」になったでしょう。

10/02放送分 宇宙旅行を可能にした人類

今月(10月)から、日本で宇宙旅行が販売されます。JTBとアメリカのスペースアドベンチャーが提携して企画した、ロシア発着の月旅行。その内容は、ロシアの宇宙船「ソユーズ」で片道3日間かけて月へ行き、月の裏側を回って地球に帰還します。気になる値段は、110億円。「ソユーズ」で国際宇宙ステーションを訪れ、1週間滞在するツアーは、22億円。3年後の2008年にも実現する見込みです。

宇宙への憧れは、恐らく人類始まってからあったに違いありません。でも、その歴史はまだ浅く、人類が初めて地球の周りを回ったのは、今から44年前の、1961年。ロシアの宇宙飛行士・ガガーリンが、地球の大気圏外を1時間50 分弱で1周し、「地球は青かった・・・・」という有名なセリフを残しています。それから8年後の1969年。アメリカ・フロリダのケネディ宇宙センターからアポロ11号が打ち上げられ、人類が初めて月面に降り立ちました。アームストロング船長は、歴史的な一歩をこのように表現しています。「一人の人間にとって小さな1歩だが、人類にとって大きな飛躍だ・・・」

それからおよそ20年。日本人も宇宙へ行く時代になりました。宇宙飛行士としては1992年にスペースシャトル「エンデバー」に搭乗した毛利衛さんに始まり、女性の向井千秋さん、若田光一さん、土井隆雄さん。そして今年は「ディスカバリー」に野口聡一さんが搭乗し、宇宙での可能性と夢をさらに広げてくれました。しかし、日本人で初めて宇宙へ行ったのは、1990年、当時TBSの社員だった秋山豊寛さんです。世界初の宇宙特派員として、宇宙ステーション「ミール」での日常生活等を民間人の感覚で日本に届けてくれました。初めて宇宙へ飛び出して、わずか半世紀で民間人の宇宙旅行を可能にしつつある人類・・。地球に住む人間の可能性も未知の宇宙に負けないくらい無限の広がりがあるのだと思えてきました。

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