2020年5月アーカイブ

2020年5月30日「手を洗おう」

「手を洗おう」。
大変有効で手軽な感染予防対策として、今、改めてその重要性が注目されていますが、実は手洗いの歴史は、ひとりの医師の奮闘から始まりました。

今から170年余り前の1840年代。
当時ヨーロッパでは分娩後の女性に発生する産褥熱が死亡率も高く大きな問題でしたが、ハンガリー出身の産科医センメルワイスは、勤務していたウィーンの病院での発生状況を調べる中で、医療行為によって汚染された医師の手が原因であると発見。
次亜塩素酸カルシウム液で手洗いすることで産褥熱の発生を劇的に軽減させたのです。

しかし、細菌もウイルスの存在も認識されていなかった時代のヨーロッパの医学界は評価するどころか、「医師の手が汚れ病気を広めている」ことを認めず、センメルワイスを批判し嘲笑したのでした。

これに屈することなく、センメルワイスはハンガリーの病院でも大きな成果を挙げて多くの産婦の命を救い、手洗いの普及に懸命に努めましたが、理解する医師は少なく、失意の内に亡くなったのでした。
しかし彼の偉大な業績は、その後の医学の発展が証明することとなるのです。

現在、センメルワイスは「院内感染予防の父」「母親たちの救い主」と呼ばれ、ハンガリーの医学部では、その意思を受け継いだ教育が行われています。

2020年5月23日「六甲山の開祖」

六甲山といえば神戸を代表するリゾート地ですが、その礎を築き「六甲山の開祖」と呼ばれるのは、英国人貿易商アーサー・ヘスケス・グルームです。

グルームが来日したのは神戸が開港した1867年。
来日してすぐに貿易商として成功した彼は、日本の女性と結婚します。
9人の子宝にも恵まれ、50年間の夫婦生活を互いにいたわり合いながら過ごしたと言われています。
そんなグルームを虜にしたのが、六甲山でした。

多彩な趣味をもっていた彼が英国に住んでいた頃から夢中になっていたのが狩猟:ハンティング。
手つかずの荒々しい六甲山は野鳥や小動物の天国で、喜び勇んで出かけては狩猟に熱中しました。
しかしその様子を見ていた妻は、やんわりとこう諭します。
「鳥の家族も私たちの家族も同じ。わずか一羽が欠けてもその家族の嘆きを考えると、狩猟はいかほどのことでしょう」

この一言に自分のしたことを深く後悔したグルームは、命あるものを殺生したお詫びの印として、六甲山を開いて人々が自然を慈しみながら楽しく過ごせる山にしようと決意します。
自ら六甲山に移り住み、仲間を集めて山を開拓。
道を整え、別荘地や日本初のゴルフ場を作り、植林や砂防工事も自費で行ないました。
グルームが六甲山の開祖へと至るその礎には、妻の一言があったのです。

2020年5月16日「安全第一物語」

工場や工事現場などでよく見かけるのが、「安全第一」という標語です。
安全を第一に考えることは当たり前のことだと思いますが、昔は当たり前ではなかったのです。

明治の日本では産業の近代化が急がれ、工場では西洋の機械を導入し、石炭の採掘が広がっていきました。
生産量を上げるために、工場や採掘現場で働く人々は劣悪な環境の中で危険な作業を強いられ、多くの人が怪我をしたり命を落としたりしていたのです。
しかも、労働災害はやむを得ないものと思われていました。

そんな考え方を変えたのは、土木工学の技師・小田川全之です。
当時、有害物質が河川に流れ出して周辺の人々を苦しめていた足尾鉱毒事件を受け、それを防止する土木工事を成し遂げた小田川は、その功績によって足尾銅山の所長に就任します。
そして、過酷な銅山の現場で苦しむ労働者の姿に心を痛めました。
そこで小田川は、「安全第一」と記した標語を工場に掲げ、自ら社内報を作って安全第一を促す講話を掲載します。
さらに「安全心得読本」を執筆して労働者全員に持たせたのが大正4年。
この試みが功を奏して労働災害は激減し、労働者が安心して働ける職場となったのです。

全国へと広がった小田川全之の「安全第一」は標語となって、きょうも働く人々の背中を見守っています。

アルベルト・アインシュタインが日本を訪れたのは98年前の大正11年。
ノーベル賞を受賞したばかりの彼は、身動きもできないほどの歓迎で埋まる東京に到着。
翌日から相対性理論についての講演を東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡など各地で行ないました。

じつはアインシュタインには、もうひとつ来日目的がありました。
それは日本を知ること。
アインシュタインの日本滞在は43日間。
全国各地でのハードな講演旅行の合間に、松島や日光、京都などを観光したり、能や歌舞伎などの伝統芸能を堪能したりしています。
また、日本の科学者だけでなく作家や哲学者などとも会って懇談したり、東京の下町や地方の農村を訪れ、そこに暮らす市井の人々と交わったり、子どもたちと遊んだりもしました。

日本の自然、歴史や文化、人々の暮らし、日本人の心、そのすべてを理解しようと努めたアインシュタイン。
日本を離れる前日、新聞に次のような感想を述べています。
「地球上にもまだ日本国民のように謙虚で親切な国民のいることを知った。
建築、絵画、芸術、自然...山・川・草・花、ことごとく美しい。」

自然とともに一人一人が思いやりと真心で支え合う。
アインシュタインが見た優しい絆は、いつの時代も未来を照らす光なのかもしれません。

2020年5月2日「友情のチューリップ」

毎年5月になるとカナダの首都オタワでは街中がチューリップの花で埋め尽くされます。
じつはこのチューリップは74年前から始まったオランダからの友情の印です。

第二次世界大戦でオランダはナチス・ドイツに占領され、オランダの王室は亡命します。
後に女王となるユリアナ王女はカナダに亡命しました。
当時の王女は妊娠中でしたが、オランダには「王位継承者はオランダで誕生した者に限る」という法律があり、このまま亡命先のカナダで出産すれば、生まれてくる子はオランダ国王を継ぐことはできず、ユリアナ王女自身も王族の資格を失ってしまいます。

そこで王女の亡命を受け入れたカナダ政府が行なったのは、王女が出産のために入院していたオタワの病院の1室を一時的にオランダの治外法権区域とすること。
つまり、王女が出産する病室だけをオランダの領土であると宣言したのです。
この特例によって、王女と彼女が生んだ娘は王位継承権を守ることができ、カナダの国会議事堂では王女の出産を祝福してオランダ国家の演奏とオランダ国旗が掲げられました。

オランダの王室と国民は、戦争が終結した翌年の1946年、カナダに10万株のチューリップの球根を贈呈。
以降、毎年2万株の球根を感謝の印として贈り続けているのです。

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