2020年4月アーカイブ

2020年4月25日「未来に残した教訓」

1980年WHOによって天然痘の世界根絶宣言が行われました。
天然痘撲滅という困難な闘いをプロジェクトメンバーや世界の人々とともに勝利に導いたのは 日本人の蟻田功です。

天然痘は強い伝染力と高い死亡率、高熱、激痛、全身に発疹する膿疱と生涯残る瘢痕など最悪の伝染病として永く人類を苦しめていました。
そんななか、熊本医科大学、後の熊大医学部卒業後に厚生省を経て、世界で病気と闘うことを志しWHO職員となった蟻田氏は、天然痘根絶強化対策本部の設立に奮闘します。

総会でなんとか予算の可決にこぎ着けますが、賛成と反対の差はわずか2票。
「根絶など夢物語」と国際社会が危惧する中、天然痘ワクチンの品質の向上と安定供給、感染者の発見とその周りにワクチン接種を行う「サーベイランス・封じ込め作戦」の展開など懸命の取り組みが行われます。
国の事情や民族・宗教の壁を越え、また、紛争地帯ではゲリラを相手に、まさに命がけの闘いでした。
そして13年後、蟻田氏はWHO総会で、73ヶ国680人が参加した国際チームを代表して、ついに天然痘世界根絶を宣言したのです。

蟻田氏は、人類が様々な違いを乗り越えて協力し天然痘を地球上から消滅させたことを、天然痘との闘いから学んだ教訓であると語っています。

2020年4月18日「日本スポーツの復活」

今から69年前の1951年4月19日。ボストンマラソン第55回大会で日本人のランナーが2時間27分45秒の記録でゴールを駆け抜けました。
優勝したのは広島出身の19歳、田中茂樹選手。
日本人初のボストンマラソン優勝者ですが、彼の快挙にはもっと大きな意味があったのです。

第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、戦後初のオリンピックロンドン大会への出場が許されず、国際スポーツの場から追放されます。
日本スポーツの誇りを復活させるには、戦勝国アメリカの伝統的なボストンマラソンを制するのが一番と考えた陸上指導者たちは、各地の有力選手を発掘し、田中茂樹はじめ4名の選手を送り出したのです。

期待を一身に背負い臨んだ大会で、田中選手はみごと優勝。のみならず他の日本人選手3名全員も入賞を果たしたのです。
その瞬間、日本の大快挙を伝えるニュースが世界を駆け巡りました。
この報道に、肩身の狭い思いをしていた在米邦人たちは、「私は日本人だ」と堂々と名乗ることができたといいます。

「田中に続け」と言わんばかりに、その後のボストンマラソンでは次々に日本人選手が優勝。その勢いは1964年の東京オリンピック開催へと繋がっていきます。
田中茂樹選手のみごとな走りは、日本スポーツの国際舞台復活への先駆けとなったのです。

2020年4月11日「解体新書始末記」

江戸時代に出版された『解体新書』というと杉田玄白の名が知られていますが、もう一人、前野良沢も大きな役割を果たしています。

『解体新書』はオランダの医学書を日本語に翻訳したものですが、玄白や仕事を手伝った仲間たちはオランダ語が分からず、蘭学者の良沢がもっぱら翻訳作業に当たり、3年半かけてようやく完成させたのです。
しかし出版された『解体新書』に杉田玄白の名はあっても、前野良沢の名はありません。

良沢は、一度は翻訳作業を終えたもののまだ不完全だと考え、さらに年月をかけて完全な翻訳をなし得てから出版すべきだと主張しました。
しかし玄白は、出来映えに難があっても一日も早く世に出すことが大事だと主張。
良沢はそんな玄白の考えについていけず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退したのです。

『解体新書』が出版され玄白の名声が高まる中、良沢は書斎に閉じこもり、一人黙々とオランダ語の研究に没頭しました。
でも、このことで二人が仲違いしたわけではありません。

じつは当時『解体新書』の出版は幕府の咎めを受ける恐れがあり、その危険から守るために玄白は良沢の名を入れなかったともいわれています。
また玄白は晩年、自身の回顧録の中で、「前野良沢の存在なくして自分の人生はなかった」と、盟友への謝意を示しています。

2020年4月4日「上野駅18番ホーム」

昭和29年4月5日、初めての集団就職列車が青森駅から東京の上野駅へ向かいました。乗っていたのは中学を卒業したばかりの少年少女622人。
上野駅は東北や北陸出身の若者を迎える玄関口だったのです。

中には慣れない都会の暮らしでホームシックになったり、仕事や人間関係に悩む者もいました。
そんな彼らの心の支えになったのが伊沢八郎さんの歌『あゝ上野駅』です。
じつは伊沢さん自身も歌手を志して青森から単身上京。
「上野駅は心の駅。くじけちゃならない。人生がここから始まった」という歌は集団就職で上京した者たちの応援歌となったのです。

北国出身の人間にとって、上野駅は故郷とつながる心の拠り所。
当時の上野駅長は、駅で途方に暮れている若者を見かけると、希望を失って郷里に帰ろうとしていないかと見定めて駅長室に招き入れ、『あゝ上野駅』を聴かせては思い留まらせました。
ときには駅長室から伊沢八郎さんに電話をかけ、直接励ましてもらったこともあるそうです。

昭和51年を最後に集団就職は幕を閉じ、集団就職列車の専用ホームだった上野駅18番ホームは、いまはもうありません。
ですが、駅前広場には「あゝ上野駅」の歌碑が立ち、当時の18番ホームの様子を描いたレリーフとともに、若者たちの背中を見つめています。

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