2019年11月アーカイブ

2019年11月30日「東京五輪とピクトグラム」

「男女の姿をデザインしたトイレのマーク」など、絵で情報を伝えるピクトグラムは案内表示として欠かせませんが、世界で広く使われる契機となったのは1964年の東京オリンピックでした。
様々な国から選手団を始め多くの外国人を迎えることになって、誰にでも分かる表記が必要になったのです。
競技種目については早くに作られましたが、忘れられていたのが施設に関する表示でした。

開会式まで数ヶ月と迫る中、東京オリンピックのアートディレクター勝見勝氏が呼び集めたのが若手デザイナー11名。
多忙なデザイナー達は、それぞれの仕事を終えて夜集まり、ひとつのテーマに全員が一斉に絵を描いて議論するという方法で39種類ものピクトグラムを完成させたのです。
そのひとつがトイレのあのデザインでした。

デザイナーの必死の努力の結晶であるピクトグラム。
ところが、勝見氏は「社会に還元すべき」という考えのもと、デザインの著作権を放棄するよう提案したのです。
デザイナー達は誰も反対することなく、進んで著作権放棄の署名を行ったと言われます。

誰にでも分かるデザインを、誰もが使えるように。
デザイナーの志は世界を巡り、2020年の東京オリンピックでも活かされます。どんなピクトグラムが世界の人々を迎えるのか。楽しみですね。

2019年11月23日「愛しのカノン」

19世紀のヨーロッパで伝説的なヴァイオリニストが活躍しました。
その名はニコロ・パガニーニ。

18歳からオーケストラの楽団員として活動した後、27歳でフリーの演奏家になります。
自ら次々と作曲しながらヨーロッパ各地で演奏会を開きますが、これが一大センセーションを巻き起こしました。
彼の演奏は人間業とは思えない超絶技巧のテクニックを駆使した華麗な音色。ヨーロッパ中が熱狂したのです。

ひとたびステージに立てば圧倒的なカリスマ性で聴衆を魅了したパガニーニですが、趣味にしていたのはじつはギャンブル。
ある演奏会の前日、彼はその趣味で大負けしてヴァイオリンを巻き上げられてしまいます。
困り果てたパガニーニ。すると、彼のファンだという男が自分のヴァイオリンを手に申し出ました。
「これは私の宝物です。でもまだ一度も人前で演奏されていません。この演奏会であなたが弾いて、私に聴かせてください。」

こうして演奏会を無事に終えたパガニーニに、ファンの男は今度はこう申し出たのです。
「私を感激させてくれたお礼にこのヴァイオリンを差し上げます。」
パガニーニはそのヴァイオリンに「カノン」という名前を付けて、生涯大切に使いました。

カノンはいまパガニーニの生まれ故郷イタリア・ジェノバの博物館に大切に保存されています。

2019年11月16日「カイゼン」

まだ食べられるのに処分される食品を食べ物に困っている人や施設に届けるフードバンク。
その活動は企業の寄付によって支えられています。

ニューヨークのフードバンクの倉庫ではスタッフたちが一人ずつ段ボールの箱を持っていろいろな食糧を詰めて歩き、トラックに積み込んでいました。
その現場にある日、1人の男性が訪ねてきます。

彼はスタッフたちに作業を中断させ、持参してきたローラーコンベアを倉庫の奥からトラックの荷台まで並べます。
そしてそのラインに沿って食糧を並べ替え、スタッフをそれぞれの食糧の前に立たせました。
つまり、人が箱を持って歩きながら食糧を詰めるのではなく、箱をローラーコンベアで移動させながら食糧を詰め込む流れ作業のスタイルを作ったのです。

その結果、それまで1箱詰めるのに3分かかっていた作業がわずか11秒に短縮。食糧の配給を待つ人々の待ち時間も90分から18分にまで減ったのです。
スタッフたちが大喜びしたのは言うまでもありません。

じつはこの日フードバンクを訪れた男性は、日本の自動車メーカーの社員。
この会社は、仕事の効率を上げるためにすべての仕組みを常に改善する企業として世界的に知られています。

企業の寄付によって支えられているフードバンク。
この会社はお金ではなく改善を寄付したのです。

2019年11月9日「世界のタケミツ」

1967年11月9日、米国の名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニックの125周年記念作品として『ノヴェンバー・ステップス』という作品がニューヨークで演奏されました。
作曲したのは日本の武満徹。
現代音楽と日本の伝統楽器を融合させた作品で武満は現代音楽家として世界的な評価を得ます。
しかし彼の音楽の資質はほとんど独学で培われたものでした。

高校卒業後に東京芸術大学作曲科を受験するものの、「作曲をするのに学校だの教育だのは無関係だ」と考えて試験2日目を欠席。
この時期から独学でピアノ曲を作っていました。
またプロの作曲家としてデビューする前はピアノを買うお金がなく、町を歩いてピアノの音が聞こえるとその家を訪ねて「30分だけ弾かせてください」と頼み込み、ピアノを弾かせてもらうという暮らしをしていたそうです。

このことについて武満本人は「1軒も断られなかった」と回想していますが、その行動に付き合った友人の証言によると、何度も続くとさすがに断られることもあったのだとか。
いずれにしても、音楽を志しているとはいえ見ず知らずの青年が「ピアノを弾かせて欲しい」という申し入れを、「しょうがないな」とおおらかに受け入れてくれた時代でした。
これからの時代、再び日本から「世界のタケミツ」は出るでしょうか。

いよいよ世界最強を賭けて決勝戦を迎えるラグビーWカップ日本大会。
伝統のラグビー大国がひしめく中、それまで一度も予選リーグを突破したことがない日本を舞台にWカップが開かれることは誰にも想像できませんでした。

ただ1人、「Wカップを日本で!」と熱く語っていた日本人がいます。
その人の名は奥克彦。
高校・大学時代にラグビー部で活躍し、1981年に外務省に入省。
留学したオックスフォード大学でラグビー部に入り、日本人として初めてレギュラーとして公式戦で活躍しています。

奥克彦はロンドン在住で外交官として英国の政財界にも広い人脈を築きながら英国の関係者に、さらには日本に戻って政府関係者にラグビーWカップの日本誘致を訴え続けました。
その結果2009年、国際ラグビー評議会は2019年のWカップをアジア初の日本で行なうことを決定したのです。

しかし、その決定を奥克彦が知ることはありませんでした。
2003年、イラクで復興支援の先頭に立って活動する中でテロの銃撃に巻き込まれて殉職したのです。

Wカップ日本大会が開幕する直前の9月18日、早稲田大学とオックスフォード大学の親善試合が行なわれました。どちらも亡き奥克彦の母校。
その試合は、Wカップの日本誘致に情熱を注いだ奥克彦をリスペクトし追悼する「奥記念杯」と名付けられたのでした。

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