今年、注目されている井伊直虎が養育した直政は、徳川家康に仕えて活躍し、一代で徳川家筆頭の重臣となりました。
しかし、関ヶ原の戦いで深手を受け若くして亡くなります。
後を継いだのは嫡男の直勝でしたが、家臣団を率いる力量もなく、病弱で戦場で活躍することもなかったと言われ、家康の裁定によって、弟の直孝が井伊家当主として彦根藩十五万石の藩主となり、直勝は三万石を与えられて安中藩(あんなかはん)の藩主となりました。
当主の座を追われ石高も弟の五分の一と、歴史が伝える直勝は情けない有様ですが、実は直勝の別の姿を伝えるエピソードがあります。
父の後を継いで間もなくから、直勝は彦根城の築城に取り組みますが工事は難航。ついに人柱を立てる話が持ち上がり、普請奉行の娘、菊が名乗り出るのです。直勝は反対であったといわれますが、工事が進まぬ中、菊は白木の箱に納められ人柱となったのでした。
その後、工事は順調に進み天守閣が完成。
直勝は労いたいと普請奉行を呼び寄せます。
するとそこには菊の姿がありました。
白木の箱は空箱とすり替えられていたのです。
この話はあくまでも伝説です。
しかし直勝の聡明さと心優しき姿は、築城から四百年を経てもなお語り継がれるほど人々の心を捉えるのです。