農業の進歩と発展の歴史は、害虫との闘いの歴史でもありますが、明治時代の初めの頃まで、筑後地方では蛾の一種である「螟虫(めいちゅう)」が稲作に多大な被害を与えていました。
しかし当時は有効な対策はなく、迷信や古くからの慣習に頼るばかりでした。
そんな中で、庄屋の益田素平(ますだそへい)は二十歳の頃から螟虫の生態を長年に渡って観察、研究し、蛹が稲を刈り取った後の株、稲株で越冬することを発見。
冬の間に稲株を掘り起こして焼却する駆除方法を考案すると、農民達に熱心に説いて回り、県にも提案したところ正式に認められたのです。
ところが農民達は、県の強制的な指導や、寒い冬の農作業が増えることへの反感から不満を募らせ、ついに明治13年、約3,000人もの農民による暴動が起きるのです。
このとき益田は「農村救済のためなら一身を犠牲にしても本望」と自宅に止まり逃げなかったといわれます。
そして「筑後稲株騒動」と呼ばれるこの大事件をきっかけに、益田の考案した駆除方法は急速に普及し、稲作には欠かせない耕作法として、戦後農薬が普及するまで続けられたのです。
明治の新たな息吹の中で、人々を農業の次なる時代へと導いた益田素平。
農業の発展は、人と人、古きものと新しきものとの闘いの歴史でもありました。