2016年12月アーカイブ

「ニッポニア・ニッポン」という学名とともに日本を象徴する鳥とされながら絶滅したトキ。
その復活に情熱を注いだのが村本義雄さんです。

トキの生息地である石川県能登半島に生まれ育った村本さんにとって、トキは身近に見かける存在でしたが時代とともに激減。
村本さんは熱心に保護活動に取り組みますがトキは絶滅してしまいます。

夢も希望も情熱も失ったという村本さん。
ところが昭和56年、中国でトキ7羽発見の新聞記事に情熱が復活。
それは「今度こそトキを絶滅させてはならない」という強い思いでした。
しかし中国語も話せない民間人。
それでも保護活動の経験や知識を伝えようと幾度も中国を訪れてようやく許可を受け、奥地のトキの生息地で見たのはトキを守ろうと努力する農村の暮らしでした。

「この人々を支えることがトキを守ること」
それから毎年のように現地に通い続けて数十年、ともに田植えをするなど交流や支援を重ね、村本さんは地元の人々を始め、中国政府からも多大な信頼を得るまでになります。
それはやがて中国政府から日本への2羽のトキ贈呈、新潟佐渡での飼育と放鳥、そして能登にトキが飛来するという奇跡へと繋がるのです。

絶滅から復活へ。
トキに情熱を捧げた村本さんは、酉年の来年92歳を迎えます。

2016年12月18日「クライスラーのいたずら」

20世紀の偉大なヴァイオリニストの一人と謳われたフリッツ・クライスラー。
並外れた才能から12歳でパリ音楽院を卒業。
13歳にしてアメリカ演奏旅行で成功し、その名を世界に知らしめました。
彼の名演奏はレコードに残され、作曲した『愛の喜び』『美しきロスマリン』などの作品は現代でも愛され続け演奏されています。
また人柄もきさくで、子どものように悪戯好きなところも周囲の人々に愛されていました。

ベルギーに演奏旅行したときのこと。
街の骨董屋を覗いていたクライスラーは、ふと思いついて携えていた愛用の「ガルネリ」というヴァイオリンを店主に見せ、「これを売りたい」と持ちかけます。
冗談のつもりで、店主の目利きぶりを確かめたかったのです。

店主はガルネリをじいっと見ると「ちょっとお待ちを」と言って店の奥に引っ込みました。
暫くして戻って来た店主は警官を連れており、クライスラーを指差してこう言ったのです。
「おまわりさん、この男です。クライスラーのヴァイオリンを盗んで私に売りつけようとしているのです」

慌てたのはクライスラー本人。
警官に連行されようとする彼はとっさにヴァイオリンを手に取り、『美しきロスマリン』をその場で演奏。
これを聞いた店主は「この曲をこれほど完璧に弾ける人はクライスラーさんしかいない」と恥じ入ったそうです。
めでたしめでたし。

2016年12月11日「「接吻」と書けますか?」

今年 2016年のノーベル賞医学生理学賞は、細胞のオートファジーを解明した東京工業大栄誉教授の大隅良典さんに授与されました。
日本人として25人目のノーベル賞で、福岡県出身として初の受賞者。
大隅さんは小学校、中学校、そして高校と、10代の少年時代をずっと福岡市で育っていきます。
未来のノーベル賞学者・大隅良典クンは福岡の町でいったいどんな少年時代を過ごしていたのか・・・。小学校の同級生だった方に伺いました。

昭和20年代の福岡市はまだ自然がたくさんあり、その中で子どもたちはのびのびと遊んでいましたが、その輪に必ずいるのが大隅クンで、とくに昆虫取りに夢中だったそうです。
勉強はよくできる子ですがガリ勉タイプではなく、やんちゃで茶目っ気があり、負けず嫌い。これが同級生から見た大隅クンの人柄だったようです。

小学校6年生の頃のエピソードです。
その年齢の子どもたちはそろそろ思春期で、欧米の映画や本で見る男女のキスが気になるお年頃。
ある日 教室に男子ばかり集まって、「セップンって、どんな漢字を書くのかな」と騒いでいると、大隅クンが前に進み出て「こう書くんだよ」と黒板にさらさらと漢字で「接吻」と大きく書いたのです。

この一件以来、未来のノーベル賞学者・大隅クンはクラスの皆から一目置かれる存在となったそうです。

2016年12月4日「ヒヨコの産みの親」

幕末の日本に北海道へ渡って独立国を作ろうと夢見た、榎本武揚。
幕府海軍の艦隊を率いて函館の五稜郭を占領し、新政府軍を相手に函館戦争に臨みますが、あえなく破れて降伏。
投獄されますが後に恩赦で釈放され、今度は明治政府で働き外務大臣などを歴任します。

榎本の履歴を見ると軍人、政治家という印象が強いのですが、その裏の顔はじつは科学者だったのです。
幕末の留学生として西欧へ渡り、さまざまな西洋の科学に触れて得た学識にさらに磨きをかけたのが、投獄された数年間。
有り余る時間を使って多くの洋書を読みあさり、さまざまな技術を勉強します。

後に、石けんや西洋ろうそく、焼酎、チョーク、硫酸などの製法を研究しますが、とりわけ熱心だったのが、鶏の卵を人工的にかえす孵卵器の開発です。
自分で鶏を飼いながら、器具を使って卵をかえす実験に明け暮れ、その結果に一喜一憂し、箱根温泉の熱を利用すれば、ただ同然で何百個の卵をかえすことができるという設計図を考案。
知り合いにその事業を勧めたりもしています。

晩年には、養鶏家で組織する日本家禽協会の初代会長をも務めた榎本。
日本で本格的に孵卵器が普及したのは大正時代になってからですが、幕末を命がけで戦った榎本は、そのヒヨコの産みの親だったのです。

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