2016年2月アーカイブ

2016年2月28日「絆は30年の時を超えて」

昭和58年6月、アメリカ人宇宙飛行士で日系三世のエリソン・オニヅカ氏が福岡県浮羽町を訪れました。

NASAの記念行事で来日したのを機に、明治時代にハワイに移住した祖父母のふる里を訪ね、先祖の墓参りをしたいというオニヅカ氏を新聞社が紹介したところ、多くの人の協力で浮羽町に鬼塚家のお墓があることが判明。
オニヅカ氏は、宇宙飛行士への夢を支えてくれた母親と妻や娘を伴いお墓参りをすると、浮羽中学校で講演を行い、
「夢に向かって努力しよう。夢はきっと実現できる」
と呼びかけ、生徒達から握手攻めになるなど大歓迎を受けたのでした。

ところが3年後、スペースシャトル・チャレンジャー号で飛び立ったオニヅカ氏が爆発事故で亡くなるという悲劇がおこります。
それは浮羽の人々の心に、オニヅカ氏との出会いをより深く刻むこととなりました。

没後30年の先月28日、浮羽町では多くの人々が参列して慰霊祭が行われ、あの中学校の講演会のとき、生徒会副会長だった弥吉京子さんが心のこもった追悼の言葉を述べるなど、温かい慰霊の会となりました。

そんな浮羽に、ケネディ駐日アメリカ大使から慰霊祭へのお礼状が届けられたのです。オニヅカ氏が結んだ絆は今も人々の心に生き続け、新たな出会いを育んでいます。

2016年2月21日「新聞ことはじめ」

明治5年のきょう2月21日、日本初の日刊新聞「東京日日新聞」が東京で創刊されました。
この新聞で主筆を務めて社説を書いていたのが、福地源一郎です。

幕末の長崎に生まれ、蘭学を勉強して通訳をしていた彼は、いつも出島にいるオランダ商館長がなぜ世界情勢を知っているのか不思議に思っていました。
そして西洋には国内外の情報を知らせる新聞という印刷物があり、それを商館長も読んでいることを知ります。
そのとき手に入れたのがオランダの古新聞。
福地と新聞の初めての出会いです。

その後、通訳としてヨーロッパ使節団に随行し、ロンドンで新聞社を訪ねます。 そこで新聞記者が政府批判の記事を書いている姿を目の当たりにし、いずれ自分も記者になって思う存分書きたいと思うようになるのです。

じつは東京日日新聞以前に、福地は明治元年に一人で新聞を発行しています。 その中で「政権はただ幕府から薩長に移動したにすぎない。これで維新の目的は果たされたといえるのか」と述べました。
しかしこれが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分。
そんなこともあり、捲土重来の思いを胸に東京日日新聞に入社したのです。

彼は社説の中で「社会」という言葉を「ソサエチー」という振仮名付きで掲載。「社会」は福地源一郎が作った日本語です。

2016年2月14日「おもやい給食」

九州の方言で「おもやい」という言葉があります。
船と船をロープで繋ぎ合わせることを「舫い」と言いますが、それが転じて一つの物を分け合ったり共有したりすることも「もやい」と言うようになったようです。
ただ分けるのではなく分かち合う、ただ共有するのではなく一緒に仲良く使う。そんな意味が「おもやい」には込められています。

佐賀県神埼市の山村にある背振小学校では、74名の児童と職員がそろってランチルームで給食を食べます。
盛りつけ方や配膳を上級生が下級生に教えながら協力して行うのですが、月に一度「おもやい給食」というものがあります。

山村にあるため校区には農家が多く、そんな地域の生産者から月に一度、給食用に米や野菜、果物などをお裾分けしてもらいます。
それらで作った給食が「おもやい給食」。
「おもやい給食」の日は、協力してもらった人たちを小学校に招待して、一緒に給食を食べる交流会も開かれます。
一緒に食べながら児童たちは感謝の気持ちを伝え、生産者も自分たちが作ったものを子どもたちが美味しく食べる姿を目の当たりにして農業のやりがいを感じるのです。

ちなみに、この「おもやい給食」のおかげ・・・かどうかは分かりませんが、この小学校の児童たちは給食を残すことはないそうです。

2016年2月7日「12歳のオリンピック」

オリンピックで日本選手の最年少出場記録をもつのは、女子フィギュアスケートの稲田悦子さんです。

1936年、ドイツで行なわれた冬季五輪に日本女子選手として初めて出場した稲田選手の年齢は12歳。
身長127センチの小学6年生だったのです。
周りの選手たちに比べてあまりにも小さいので、観客席の子どもがリンクに迷い込んできたのでは、と誤解されるほどでした。

稲田選手の競技ユニフォームは白のワンピース。
裏地は日の丸を意識した赤でした。
実はこの衣装は日本から持ち込んだものではありません。
当時の日本の洋服のデザインの水準は欧米に比べて劣っていて、彼女が日本から持ち込んだ衣装は見栄えが悪いものだったのです。
「これでは審査の点数に影響するのでは」と心配したのが、ベルリンの日本大使館。そこでベルリン駐在の日本婦人会の手で急遽仕立て上げた子供服を稲田選手に贈ったのです。

この衣装で試合に臨んだ稲田選手は、すらりと背が高い欧米の大人の選手たちを相手に、26人中堂々の10位の成績を収めます。
そのときの彼女のコメントは「みんな知らない顔ばかり。ダイコンやニンジンの中で滑っているみたいで気楽だった」というものでした。

ここから始まったオリンピックの日本女子フィギュア。
荒川静香選手がトリノ五輪で金メダルに輝くのは70年後のことです。

アーカイブ