2015年10月アーカイブ

新米が美味しい季節を迎えています。
今やお米は、産地や銘柄など大変多彩で「あきたこまち」もそのひとつですが、実は秋田のブランド米作りは、今から40年前、たった二人で始められました。というのも、秋田県は米どころでありながら、米の新品種を作り出す「育種」の取り組みは長く行われていなかったのです。

しかし時代の流れで、秋田農業試験場でも育種の取り組みが始まります。
ところが、当時の担当者は斉藤科長と畠山研究員の二人だけ。
しかも育種の経験ゼロでした。

そこで二人は各地の農業試験場を訪ねて猛勉強。
その努力の中で、福井農業試験場の場長から「これが秋田の地に適するのではないか」と研究中の品種を一株だけ、米粒にして384粒をもらい受けたのです。
ここから斉藤科長と畠田研究員のさらなる奮闘が始まり、8年余りの歳月をかけて、ついに昭和59年「あきたこまち」を発表。
お米の美味しさをはかる「食味試験」でも驚きの数値を叩き出して話題となるのです。

ところで「あきたこまち」は種苗登録が行われませんでした。
福井県と秋田県が、その権利をお互いに譲り合ったためだといわれます。
そのお蔭で「あきたこまち」は全国で広く生産されることになって、多くの人々に愛されるお米に成長したのです。

10/18「将棋とチェス」

戦後の日本を統治したのはマッカーサー率いるGHQ。
彼らは日本の非軍事化教育の一環として、剣道や歌舞伎の忠臣蔵、チャンバラ映画など戦いのイメージが強い文化を排除する政策を進め、将棋も禁止する動きがありました。

GHQから日本将棋連盟に出頭命令が下ります。
連盟を代表する棋士として選ばれたのは升田幸三。
彼は破天荒な性格の異端児ですが、度胸の良さと頭の回転の速さは将棋界随一。そこを見込まれて将棋連盟の命運を托されたのです。

GHQ本部に出頭した升田に係官が尋問します。「将棋は、取った相手の駒を自分の兵隊として使う。これは捕虜の虐待で非人道的で野蛮なゲームだ」
舛田はすかさず切り返します。「それは違う。将棋は敵の駒を捕まえても殺さないで、味方として働き場所を与える。人道的な思想なのだ」
さらに付け加えます。 「それに比べてあなた方が楽しんでいるチェスのほうは、取った駒を殺す。それこそ捕虜の虐待だ。それにチェスは王様が危なくなると女王様まで楯にして逃げようとする。これはあなた方の民主主義やレディファーストに反する行為ではないか」

升田にそう決めつけられると、担当官は苦笑いするばかり。
「きみはじつに面白い日本人だ」と、土産にウイスキーを持たせて帰らせたそうです。
もちろん、日本の将棋が禁止されることはありませんでした。

10/11「村を救った恩人への思い」

400年ほど昔のこと。いまの宮崎県日之影町に大人村という山村がありました。
毎年秋の早霜の害を鎮める祈祷が行われていたのですが、その儀式のために村から一人の娘の命を人身御供として供える掟があったのです。
祈祷の日が近づくと、娘のいる家にどこからか白羽の矢が飛んできて指定します。
そのたびに大人村は深い悲しみに包まれました。
人身御供として差し出した娘は、二度と帰ってきません。
でもこれを拒めば、早霜の害で地方一帯の農作物が全滅すると信じられていたのです。

この地方を治めることになったのが、戦国武将の甲斐宗摂。
彼は大人村の掟を知ると「そんな迷信に人の命を犠牲にするのは愚かなことだ」と、自ら狩りをして猪を捕らえ、それを娘の代わりに差し出すように命じます。
それ以来、人身御供の掟はなくなり、また、宗摂は領内の開拓や用水路を開削するなど善政を敷いて領民に慕われました。

しかし数年後、彼は延岡藩との戦で敗れ、自害。
その死を嘆き悲しんだ大人村の人々は、村に宗摂の供養塔を建て、命日には宗摂の好んだ歌や踊りを奉納して遺徳を偲ぶようになりました。
そしてその心は400年経った現在でも続いているのです。

大人村の恩人・甲斐宗摂を偲ぶ「大人歌舞伎」は、宮崎県日之影町大人地区「かぶきの舘」で、10月11日、今夜7時半から奉納されます。

10/4「子供議会」

戦後の日本の新しい民主主義教育の一つに「子供議会」という学習活動がありました。これは子どもたちの暮らしの身近な問題を解決するために子どもたちだけで討論会や決議をする組織です。

昭和24年、東京の台東区子供議会がひとつの決議をしました。
「上野動物園に象がほしい。名古屋から本物の象を借りてこよう」
戦争のために上野動物園から象がいなくなり、東京の子どもたちは寂しい思いをしていたのです。
子供議会の代表二人が夜行列車に乗って象がいる名古屋の東山動物園に向かいます。
でも小学生の頼み事を真剣に取り合ってくれる大人はなく、象を東京に呼ぶことはできませんでした。
それにもめげずに子供議会が「上野に象を」と呼びかけると、その輪は東京中に広がり、小中学生が都庁にプラカードを立てて押し掛けたり、都知事に陳情をしたりしました。

そんな日本の子どもたちの活動が、たくさんの象が人間と暮らす国インドに伝わります。
子どもたちのひたむきな思いに心を打たれたのはネルー首相。
すぐさま若くて健康な1頭の牝象を選び、自分の娘の名を取って「インディラ」と名づけ、日本に送り出したのです。

海を越えて叶った東京下町の子どもたちの小さな願い。
上野動物園で行われたインディラの贈呈式には子供議会の全員が招かれています。

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