2015年9月アーカイブ

9/27「主君が焚いた蒲生風呂」

戦国時代の大名、蒲生氏郷は、若き頃、織田信長が、その力量を見込んで、娘の冬姫を嫁がせたほどの武将で、大名として着々と躍進しますが、大変、家臣思いの主君であったことでも知られています。

当時の大名にとって、優秀な武将を召し抱え、その働きに応じて恩賞を与えることは重要なことでしたが、氏郷がまだ発展途上で、充分に恩賞を与えることができなかった時代に、戦場などで功績のあった家臣を屋敷に招いて、酒肴のもてなしをしたといわれます。
当時、風呂に入ることは贅沢なことで、最上のもてなしとされましたが、招かれた家臣は、風呂を勧められ喜んで入ると、外から湯加減を聞く声に驚きます。
なんと、主君の氏郷が自ら薪をくべて風呂を焚いていたのです。
家臣の驚きと感激は大変なものでした。

この氏郷の「蒲生風呂」の話は家中に広まり、家臣達は、いつか自分も入れるようになりたいと懸命に奉公に励むようになったといわれます。
「家臣の働きに報いたい、家臣を労わりたい」という氏郷の思いが伝わり、蒲生家家中では蒲生風呂が、かけがえのない恩賞となったのです。

豊臣秀吉の時代に、氏郷は会津92万石の大大名へと躍進しますが、このときも家臣に惜しみなく所領を分け与えたといわれます。

9/20「空と海のパイオニア」

きょう9月20日は「空の日」。明治44年のこの日、国産初の飛行船が東京上空で1時間にわたる初飛行に成功しました。

飛行船を作ったのは、和歌山県出身の山田猪三郎。彼はゴム製品の専門家で、その技術を生かして、明治33年に日本初の気球を開発。
さらに、気球を自由に飛行させる飛行船の開発に取り組み、明治44年に完成させたのです。

「日本航空界のパイオニア」と呼ばれる山田猪三郎を讃える顕彰碑が故郷の和歌山市にあり、彼の命日には関係者が参拝に訪れますが、その中に和歌山海上保安部の面々がいます。
空の功労者である山田の顕彰碑に、なぜ海を守る人たちの姿があるのか?

明治19年、イギリスの貨客船ノルマントル号が和歌山の串本沖で遭難。多くの犠牲者が出ました。この事故に心を痛めた山田は
「水難事故から命を守るためにゴムで携帯用の救命具を作ろう」と決意。
和歌山から大阪に出て、外国人技師からゴム製品の製造法を学び、明治22年に独自のゴム浮輪を開発しました。
彼はさらに東京に進出し、明治26年に日本初の折り畳み式ライフジャケットも開発。
これを成し遂げた後に、自分の技術を海から空へ向けたのでした。

空のパイオニア・山田猪三郎は、海の安全を守るパイオニアでもあるのです。

9/13「ドジな頑固者」

きょう、大相撲秋場所が初日を迎えていますが、昭和33年の秋場所初日、ちょっとした事件が起こりました。
結びの一番の取り組みに物言いがついたのですが、その協議に13分を費やしたのです。

その原因は、この一番を裁いた立行司19代式守伊之助。
物言いがつくと行司は審判たちの協議を粛々と見守るのが常識なのですが、このときの伊之助は、行司差し違えと判定した審判たちに向かって、真っ赤な顔で涙を流し、軍配で土俵を叩きながら自分の判定の正しさを主張したのです。

これを咎められた伊之助は、13日の出場停止という謹慎処分を受け、この一件は「伊之助 涙の抗議」事件として相撲ファンに語り継がれることになります。

それほどの頑固者だった伊之助はまた、ドジな行司としても有名でした。
取組中の力士のさがりを抜こうとして軍配の下げ緒がからみつき、そのまま両力士の腹の間に挟まっておろおろしたり、勝った力士のしこ名をど忘れして
「お前さぁ?ん」と勝ち名乗りを上げたり。
小柄な自分の身長を高く見せようと上げ底に細工した足袋を履くと、俵につまづいて土俵下に転落したというエピソードもあります。
そんな頑固な気質とドジな性分とのギャップが彼の持ち味だったようです。

やがて謹慎処分が解かれ土俵に登場した伊之助を、観客は万雷の拍手で迎えています。

9/6「知られざる世界一周」

1522年のきょう9月6日、マゼラン隊の船が世界一周してスペインに入港。
地球が丸いことを証明しました。
しかしマゼラン本人は航海途中にフィリピンで死亡。人類初の世界一周を成し遂げたのは、彼の部下の18人の乗組員ということになります。

この航海には召使いとしてマゼランに仕えるエンリケという男が同行していました。ポルトガルがアジアを侵略した際に奴隷としてヨーロッパに連れてこられたマレー人です。
マゼランはエンリケをよく信頼し、エンリケもマゼランに忠実に仕えたことから、マゼランは
「私が死んだらエンリケを奴隷から解放し、彼の意のままに生きるように。
 さらに私の遺産から生活扶助として彼にお金を送るように」
という遺書を残しています。

航海の途中、マゼランが死んでしまうと、主人を亡くしたエンリケはそこで船を降ります。
その後の消息は不明ですが、故郷のマレーに帰ったのではないかといわれています。
ということは、マレーからヨーロッパに連れてこられ、そこからマゼランとともに太平洋を渡って、再びマレーへ帰ったエンリケは、マゼラン隊の船がスペインに帰り着くその前に世界一周をしたことになるのです。

現在、マレーシアの海洋博物館にはエンリケの銅像があり、人類で初めて世界一周した英雄として紹介されています。

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