2015年7月アーカイブ

7/26「解き明かされた謎」

世界で愛読されている「夜間飛行」や「星の王子様」の著者、サンテグジュペリが亡くなったのは、第二次世界大戦の最中の1944年7月31日。
フランス空軍に志願して偵察機に乗務していた彼は、この日、任務で出撃し地中海で消息を絶ったのです。

その死は長く謎とされていましたが、生誕100周年にあたる2000年に捜索が行われ、海中に残る墜落機の残骸の中に当時の搭乗機が確認され、その後引き揚げられました。
しかし、なぜ墜落したのか、その謎が解き明かされたのは8年後のことでした。
元ドイツ空軍パイロットで88歳のホルスト・リッパート氏が「自分が撃墜した」と証言したのです。

あの日、敵機を発見し撃墜したリッパート氏は、数日後に、サンテグジュペリが操縦していたことを知り愕然とします。
「あの操縦士が彼ではないことをずっと願い続けてきた。彼の作品は誰もが読んで、みんな大好きだった」。
実は当時、サンテグジュペリ行方不明を知ったドイツ空軍も捜索を行ったといわれています。

大空を愛する心で結ばれていた人々を敵味方に隔てた戦争。
撃墜から64年間、苦しみ続けたリッパート氏の勇気ある告白を、サンテグジュペリは空の彼方から翼を振って称えていることでしょう。

7/19「革靴のテニス」

第一回オリンピックは1896年。クーベルタン男爵の提唱で、古代オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで開催されることになりました。

この大会を観に来たのが、オックスフォード大学に通うジョン・ピウス・ボーランドという学生。彼はギリシャ古代史の研究をしていたので、古代オリンピックの復活に興味をもったのです。
彼は大会前夜にアテネの町で食事をしたときに相席した人物と意気投合。
ボーランドが趣味はテニスだと話すと、「じゃ、明日のテニスの試合に出場しないか」と誘われます。

じつはその人物は大会組織委員会の一人。
その便宜でテニス競技に飛び入り出場することになったボーランドは、翌朝、町を駆けずり回ってラケットなどを揃えました。
が、どうしてもテニスシューズだけが見つかりません。

仕方なくイギリスから履いてきた革靴で試合に臨むのですが、彼のテニスの腕前はたいしたもので、次々に対戦相手を撃破。
決勝戦でギリシャの選手にストレート勝ちし男子シングルスで優勝したのです。
また、ダブルスでは仲のよかったドイツ人と混合チームを組み、これも決勝でギリシャチームを下して優勝。

こうして、ギリシャ古代史の研究でアテネに来た一学生ボーランドは、オリンピックのテニス競技で最初のメダリストになり、ギリシャの近代史に自らの名前を刻んだのです。

7/12「作曲家どうしの友情」

1937年7月11日、一人の偉大な作曲家が亡くなりました。
ミュージカル映画などで洒落たジャズの感覚を管弦楽で聴かせる曲を数多く産み出したアメリカの国民的作曲家ガーシュインです。
その死を悼んで追悼のラジオ番組が放送されましたが、そこで弔辞を読み上げた人物に全米のファンが驚きました。
それはシェーンベルク。大衆に愛されたガーシュインの音楽とはまったく対極の、無調音楽や12音技法で知られる現代音楽の大家なのです。

当時の作曲家たちは、ジャズとクラシックを融合したガーシュインを高く評価するラベルなどがいた一方で、プロコフィエフやシェーンベルクは彼の音楽を毛嫌いしていたといいます。
しかし、じつはガーシュインとシェーンベルクは無二の親友だったのです。

友情の始まりは、ウィーンから亡命して たまたま近所に越してきたシェーンベルクの趣味がテニスだと知ったガーシュインが、自宅のテニスコートに招いて意気投合したこと。
また二人は絵を描くという趣味でも一致し、ガーシュインが描いたシェーンベルクの肖像画も遺されています。
テニスと絵という共通の趣味を通じて、二人は音楽の信条を超えた友情を築いていったのです。

シェーンベルクは弔辞でガーシュインの業績を讃えた後、こう呟いています。
「私は自分にとってかけがえのない、愛すべき友人を失いました」

7/5「テニスの義援金」

昭和50年のきょう7月5日、テニスの沢松和子選手が日本の女子として初めてウインブルドンで優勝しました。
日本のテニスが国際舞台に躍り出たのは大正時代。
日本人で初めてウインブルドンに出場したのは清水善造です。

当時の日本ではまだテニスが一般的に普及していませんでしたが、商社の社員だった清水は海外赴任の暮らしの中で気軽にテニスに親しみ、めきめきと腕を上げていきました。
そして赴任先の国で仕事をする傍ら、各国の選手権大会に出場しては優勝を積み重ねていきます。
その成果が認められ、大正9年、ついにウインブルドンに立ったのです。

この大会は前年度の優勝者への挑戦権をかけたチャレンジラウンド方式。
ここで清水はなんと決勝戦まで勝ち進んだのです。
彼の実力とスポーツマンシップに溢れた潔さや、終始笑顔を絶やさないプレイは観客たちの人気を集め、他のテニス選手からも尊敬される存在でした。

大正11年、ニューヨークに赴任していた清水に関東大震災の知らせが入ります。
そこで立ち上がったのは、アメリカのテニス選手たち。
彼らは日本救援のために全米各地でテニス大会を主催して、義援金を集めたのです。
もちろん清水もこの大会に参加。
そのお金は清水を通じて日本へ届けられ、震災復興に大きく貢献しました。

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