昭和16年の夏。
北海道の余市でスキーのジャンプ台が建設されます。
当時の余市中学校の校長が、中学生のためのジャンプ台を作りたいと竹鶴政孝(たけつる・まさたか)氏に相談したのが始まりでした。
この前年に余市の工場からニッカウヰスキーを発売したばかり、会社はまだこれからという難しい時期でしたが、竹鶴氏は快諾すると、私財を投じて建設に取り組み、余市中学スキー部の学生達も夏休みを返上して作業に参加。
のちに竹鶴シャンツェと呼ばれるジャンプ台を完成させています。
ここから育った選手の一人が笠谷幸生(かさや・ゆきお)選手です。
旧余市中学の余市高等学校に学んだ笠谷選手は竹鶴シャンツェで練習を重ねて活躍。
大学を卒業してニッカウヰスキーに入社すると、竹鶴氏は笠谷選手を余市工場に配属しスキー部を創設して全面的に支援しました。
そして5年後、札幌オリンピックのスキージャンプ70m級で笠谷選手は金メダルに輝くのです。
竹鶴氏は「厳しい努力と精進で日本スキー史始まって以来の快挙をやってのけてくれた」と讃え、記念に小学生のためのシャンツェを建設して笠谷シャンツェと名づけます。
ここから育ったのが長野オリンピックの金メダリスト舟木選手でした。
竹鶴氏が亡くなって36年。
竹鶴、笠谷シャンツェは、今も多くの選手を育てています。