2014年12月アーカイブ

12/28「丹頂鶴の復活」

今から90年前の大正13年。
鶴のタンチョウ十数羽が北海道の釧路湿原で確認されます。
明治時代に絶滅したと思われていた丹頂鶴の再発見でした。
昭和10年には国の天然記念物に指定されるものの、鶴の保護が進むような時代ではありませんでした。

そして、終戦後の昭和25年頃の雪の朝。
阿寒町に住む山崎定次郎(やまざき・さだじろう)さんが畑でトウモロコシを突いている数羽の鳥を見つけます。

美しい姿に思わず見とれ、タンチョウだと気がついた山崎さんは「何とか生き延びてくれ」と願いを込めて、当時、貴重な食料であったトウモロコシを撒き始めますが、警戒心の強いタンチョウは近づこうともしません。
しかし、山崎さんは諦めず毎朝同じ時間に撒き続け、次第に信頼関係が育まれて、ついに食べてくれるようになったのです。
タンチョウの人工給餌の始まりでした。

その後、給餌は地元の小学校や中学校の子供達を始め、多くの人々に広がり、受け継がれ、厳しい冬に餓死する命を救ってきたのです。

今では1,000羽を超えるまでになったタンチョウ。
「鶴は千年」とめでたさを謳われ古くから愛されてきた丹頂鶴が、今日、冬空を舞うその美しい姿は、多くの心温かい人々の善意と熱意の結実でもあるのです。

12/21「こつだボンタン」

明日12月22日は冬至。昼の長さが一年中で最も短い日です。
冬至には昔から南瓜を食べたり柚子湯に入る風習がありますが、鹿児島では柚子ではなく文旦の皮を湯に浮かべて風呂に入る家庭もあります。

文旦が日本に伝わったのは江戸時代。鹿児島の阿久根で最初に家の庭先に主に観賞用として文旦の木を植えるようになりました。
その一人に、本田小藤太という下級武士がいました。
彼の庭先にも父親の代から文旦の木が何本か植えられていましたが、その中の1本に実る果実が、色つやが奇麗で形もよく、もいでも実離れがよく、さらに食べてみると驚くほど美味しいことに気がつきます。
それが村中の評判になると、小藤太はその文旦の木の枝を次々に切り取ってしまうのでした。
彼は幼い頃から優しい性格で「仏の小藤太」と呼ばれるほど思いやり深い人。
美味しい文旦を村の皆にも分けてやろうと、接木用に切り取っていったのです。

こうして村中の文旦は飛躍的に美味しいものになり、やがて阿久根の特産品となって、農家の収入源として広く栽培されるようになっていきました。

本田小藤太は昭和7年に76歳で亡くなり、庭に残された文旦の原木も昭和20年の空襲で焼けてしまいました。
阿久根市では文旦改良の恩人を称え、阿久根文旦を「本田文旦」「こつだ文旦」と名づけてブランド化しています。

12/14「空のアイドル」

大正5年12月15日、東京の青山練兵場・・・いまの神宮外苑に大勢の人々が集まっていました。
この日、ここで皆が目にしたのは、日本の空を初めて飛んだ女性の姿です。
その人の名はキャサリン・スティンソン。
米国からやって来た25歳のうら若きパイロットです。

キャサリンはこのときから半年ほど日本に滞在し、全国各地を訪ねては得意のアクロバット飛行を披露。どこに行っても熱狂的な歓迎を受けました。
新聞はそんな彼女の行動を連日写真付きで報道。
また、彼女の姿を描いた絵葉書が何十種類と売り出され、滞在先のホテルには全国の若い女性からたくさんのファンレターが届けられました。

日本の若い女性たちにとってキャサリンはアイドル。
ネイティブ・アメリカンの血を引き、小柄で日本人に近い顔立ちが親しまれたようですが、やはりなんといっても、女性が自分で操縦して自由に空を飛ぶという、当時の日本では想像すらできないことをやってみせたことが、若い日本女性たちには魅力的だったのです。
キャサリン自身も歓迎会や講演会で「勇気を持って熱心に取り組めば、女でも男のすることはできるのです」と話し、日本の若い女性たちを激励しています。

日本人女性パイロット兵頭精が初めて日本の空を自由に飛んだのは、キャサリンの来日から6年後の大正11年のことです。

12/7「ラグビー事始め」

明治34年のきょう12月7日。日本で初めてラクビーの試合が行われました。
慶応義塾大学チームと横浜の外国人クラブチームの対戦です。

慶応大学にラグビーを伝えたのは、ラグビーの本場イギリスから赴任したエドワード・クラーク教授。
当時、大学での屋外スポーツは秋冬がオフシーズンで、クラーク教授の目には学生たちが秋の素晴らしい天気を持て余しているように映り、彼らにラグビーを教えれば午後の自由時間にあんなに退屈しなくてすむだろうと考えたのです。
ラグビーを見るのも初めてだった学生たちはクラーク教授の熱血指導で次第に上達し、参加人数も増えていきました。

そして迎えたのが、初の対外試合。
相手は、当時の日本で慶應大学以外に唯一ラグビーをしていた横浜居留地の外国人クラブチームだったのです。
試合の結果は、やはり体格と経験の差が大きく、5対35で学生たちの大敗。
それでも、初めての対外試合で無得点の屈辱を免れて5点を勝ち取ったのです。
その5点とは、ボールを抱えた学生が迫り来る敵のタックルに割れるような大声を出して威嚇し、相手が怯んだ隙にトライ。
それを受けて、学生たちに交じって試合に出場したクラーク教授自らのゴールによる渾身の5点でした。

あれから113年。いまラグビー日本代表の世界ランキングは第9位です。

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