2011年6月アーカイブ

6/26「ヘダ号の絆」

ロシアの使節プチャーチンが艦隊を率いて日本に来航したのは嘉永6年7月。
アメリカのペリーが幕府に開国を迫った翌月のことでした。
通商条約締結を目指すプチャーチンは、その後も来航を重ね、
三度目の来航で幕府と交渉を開始した直後、
マグニチュード8.4と伝えられる大地震、安政東海大地震が発生するのです。

プチャーチンの船、ディアナ号は押し寄せる大津波で大破。
しかしその最中に、津波にのまれた日本人を救出し、被災地に医師を派遣して幕府に感銘を与えています。
その後、船は修理に向かう途中で沈没してしまいますが、
およそ500名の乗組員は沿岸の村人達の懸命の働きで救出され、ロシア側が深く感謝したといわれます。

帰国する船を失ったプチャーチンは、幕府の許可を得て、
現在の静岡県沼津市戸田(へだ)で船の建造に取りかかります。
それは日本初の本格的な洋式の船の建造でした。
船の設計と監督はロシア側がおこない、日本側は戸田の船大工を始め、
江戸からも優秀な船大工や鍛冶職人が呼び寄せられ、
日本とロシアの一致団結のもと、わずか三カ月で船が完成するのです。
感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名して感謝の気持ちをあらわし、
条約締結の使命も果たして帰国の途についています。

甚大な被害をもたらした大地震でしたが、その困難の中で、国と国、人と人の絆はより深く結ばれたのです。

6/19「コロンブスのパスポート」

「昭和37年、堀江兼一さんがヨットでの太平洋単独航海に成功」
……昭和の歴史に燦然と輝く快挙ですが、じつはその当時、堀江さんはヒーローではなく犯罪者と見なされていました。

当時は日本人が海外旅行をしようとしても、簡単にはパスポートが発給されない時代。
堀江さんはヨットでアメリカに渡るという申請理由で正規のパスポートをもらおうと、
あらゆる方法を試みましたが、「そんな前例のない渡航を認めるわけにはいかない」とどうしても受け付けてもらえません。
そこでやむを得ずパスポートなしで出港したのです。

これは法的にいえば、密航。
3カ月後にヨットがサンフランシスコに到着すると、日本の法務省はアメリカ政府に堀江さんを
出入国管理法違反で身柄を拘束するよう要請し、強制帰国の後に起訴する方針を固めます。
新聞も一斉に「無謀で愚かしい行動」だと非難しました。
ところが、アメリカの反応はまったく違うものでした。

サンフランシスコの市長は、週末にもかかわらず大統領と連絡を取り、
堀江さんをサンフランシスコの名誉市民として迎え、歓迎の晩餐会を開きました。
また、地元のヨットクラブは堀江さんに名誉永久会員証と波止場の生涯無料使用証を発行し、
さらにアメリカ滞在に必要な保証人になることを申し出たのです。
小さなヨットでたった一人、太平洋を渡ってきた日本の若者の勇気に感動し、熱烈な歓迎をしたアメリカ。
パスポートを持たない密航者として非難している日本に対して、サンフランシスコの市長は、
「あのコロンブスだってパスポートなしでアメリカにやって来たのだ」と皮肉ったそうです。

堀江さんの小さなヨット「マーメイド号」は、49年たったいまでも、サンフランシスコに大切に展示されています。

6/12「登山ガイド犬」

大分県・くじゅう連山に登る登山者やハイカーたちの間で「伝説の犬」の話が語り継がれています。

痩せて毛が抜け落ちた子犬が捨てられていたのは、昭和48年。
かわいそうに思った登山口のバスの切符売り場のおじさんが、面倒を見ました。
「平治」と名づけられたこの子犬は、お弁当を分けてもらえるからか、よく登山客にくっついて山を登るようになりました。
やがて毛並みもよくなり、平治が立派な秋田県だということもわかり、
以来、平治は登山者をガイドする犬となったのです。

平治は、登山客のペースに合わせてゆっくりと先頭を進んでいき、
分かれ道になると必ず立ち止まって待ち、また、山小屋での休憩では、決して中には入らず外に座って待ちます。
そうやって、言葉が解るかのように、ちゃんと目的地まで案内するのです。
平治はまた、道に迷ったり、霧や吹雪で立ち往生した登山者を誘導して無事に下山させたことも数知れません。

登山者たちに愛され、可愛がられた平治は14年間登山ガイド犬として活躍しましたが、
老衰のために昭和63年春に引退。
その年の夏、弱った足腰を奮い立たせて登山客を山のキャンプ場まで案内して、
そのまま力尽き、静かに息を引き取ったのです。
周りに居合わせたキャンパーや登山者たちが泣き崩れました。
駆けつけた飼い主のおじさんは「長い間、ご苦労だったなぁ、ありがとう平治」とつぶやきながら、
平治の亡骸を抱きかかえて下りていきました。

やがて、くじゅうの登山口に、山を見上げる平治の銅像が建ちました。
その像に安全を祈る?これがいまのくじゅう登山の習わしなのです。

6/5「ペルーが泣いた日」

日本の女子バレーボールチームが「東洋の魔女」と恐れられていた1965年、
元バレーボール全日本選手の加藤明氏が南米・ペルーの女子バレーボールチームの監督として招かれました。

当時のペルーの女子バレーボールはあまりにも未熟でした。
そこで彼はペルー中から素質のある少女を捜し歩き、新しいチームを編成。
世界に通用するチームを育て上げるため、厳しい練習を課します。
しかしペルーの娘たちはその日本式のスパルタ教育に面食らい、
彼女たちの多くが根を上げ、何度も逃げ出しては引き戻されるありさま。
ペルーの新聞からは「野蛮な国から来た野蛮な監督」と非難されました。

自分のやり方は受け入れられない・・・・・。
悩んだ加藤氏は、ペルーの言葉や食べ物、生活習慣、文化を吸収して、ペルー人の心を理解しようとしました。
そして、練習だけでなく精神面や生活面も指導したり、
ときには選手たちと食卓を囲み、日本の歌を得意のギターで弾いていっしょに歌ったりして、
家族同様の交流を深めていきます。
そんな彼をペルーの娘たちはやがて父のように慕い、厳しい練習にも取り組み、チームはメキメキと上達。
1968年のメキシコオリンピックでは4位入賞を果たし、世界を驚かせました。

その加藤明氏は1982年、ウイルス性肝炎を発病し、ペルーで永眠。
首都のリマでは弔意を表す車のクラクションが一晩中鳴らされ、
新聞の一面の見出しには「ペルーが泣いている」と報じられました。
悲しみを胸に秘めた加藤氏の娘たちは、
その年の秋に地元ペルーで開催されたバレーボールの世界選手権で、
彼の母国・日本チームを初めて下し、史上最高となる準優勝を獲得。
それは日本人・加藤氏がペルー人となって17年かけて蒔いた種が花を咲かせた瞬間だったのです。

アーカイブ