アメリカの首都、ワシントンのポトマック河畔の桜並木は、
日本の桜を愛する多くの人々が懸け橋となって誕生したことで知られますが、
桜が海を渡って花を咲かせるまでには長い道のりがありました。
明治42年、タフト大統領のヘレン夫人による日本の桜の植樹計画を知った尾崎東京市長は、
2000本の桜の苗木を贈ります。
ところが、船でアメリカに到着した桜は害虫が付いていたため、すべて焼却処分となるのです。
元気な桜を届けるために、日本の人々の懸命の努力が始まります。
接ぎ木で増やす桜は、土台となる「台木(だいぎ)」と、それに接ぎ木する「接ぎ穂(つぎほ)」が必要ですが、
東京市は健康な台木を求め、兵庫県の植木の産地、
東野村(ひがしのむら)の久保武兵衛(くぼ・たけべえ)に1万5000本もの台木作りを依頼します。
武兵衛は光栄なことだと喜んで引き受け、村を挙げて取り組むのです。
村人達は手分けして1本1本丹精込めて台木を育てあげ、
村から送り出すときは「万歳、万歳」と声を挙げて見送ったといわれます。
その後、園芸試験場で接ぎ穂が接ぎ木され、苗木が再び海を渡ったのは3年後のことでした。
当時、船の長旅にも耐える健全な苗木を大量に育成するのは至難の業でしたが、
見事な苗木はアメリカの検査官を驚かせました。
そして、明治45年3月27日大統領夫人によって植樹式が行われたのです。
人々の思いが花を咲かせた桜並木は来年の春、100周年を迎えます。