今から150年余り前の安政2年、江戸を中心とする関東にマグニチュード7とも伝えられる大地震が発生しました。
大都市江戸の被害は甚大で、死者は4,000人を超え、倒壊家屋は1万戸に及んだといわれます。
このときに惜しくも亡くなったのが水戸藩の藩士、藤田東湖(ふじた・とうこ)でした。
幕末の水戸藩といえば尊王攘夷(そんのうじょうい)でしられますが、
その要となったのが東湖で、水戸藩主、徳川斉昭(とくがわ・なりあき)の側近として活躍。
ペリーが浦賀に来航して、藩主斉昭が幕府の海防参与(かいぼうさんよ)に任じられると、
東湖も幕府の海防政策に携わり、激動する日本の政治や外交に力を尽くしました。
全国の尊王攘夷派の藩士や志士達から絶大な信望を集め、
西郷隆盛など多くの志に燃える若者が東湖を訪ね、その薫陶(くんとう)を受けたといわれます。
そんな東湖を大地震が襲いました。
そのとき、東湖は江戸の水戸藩邸内の屋敷から無事に庭に逃れるのですが、
母親が火鉢の火を心配して戻ったため、あとを追いかけます。
そこに大きな梁が落下してきたのです。
母をかばい、梁を全身で受け止めた東湖は残る力を振り絞って母を逃すと、ついに力尽きて圧死したのです。
享年50歳。
国を思う信念の人は、その命を惜しまず母に捧げました。
志半ばで亡くなった東湖。
しかし、熱き志は多くの志士達に受け継がれ、新たな時代を拓く礎となったのです。