明治時代に「鹿鳴館の華」と謳われた石井筆子(ふでこ)。
東京女学校やアメリカ人の英語塾に学ぶなど先進的な教育を受けた筆子は、
皇后の推薦を受け19歳でヨーロッパに留学。
帰国後は、エリート官吏(かんり)と結婚する一方、華族女学校の教師となり、
鹿鳴館では、その美しさと聡明さで注目されます。
そして筆子は3人の娘の母となるのです。
それが試練とともに使命の道を歩む始まりでした。
長女に知的障害があったのです。
しかも病弱だった夫は35歳の若さで先立ち、次女も三女も亡くなります。
相次ぐ悲しみの中で出会ったのが石井亮一でした。
日本最初の知的障害者の福祉施設、滝乃川学園に娘を預けていた筆子は、
学園の創立者で園長でもあった石井の高潔な人柄と志に感銘を受け、周囲の反対を押し切って再婚。
子供達と寝起きを共にする質素な生活を始めます。
しかし、富国強兵の世の中で知的障害への無理解と偏見が渦巻く中、
深刻な資金難、学園の火災と園児の死亡など、次々に試練が襲いかかり、学園に閉鎖の危機が迫ります。
ところが、火災が新聞で報じられると全国から励ましや義援金が次々に届いたのです。
多くの人々の善意で学園は再出発を果たします。
その後、筆子は夫、亮一が亡くなると志を継いで学園長となり、
太平洋戦争の最中82歳で亡くなるまで知的障害児の保護と教育に生涯を捧げ、学園を今日に残しました。
様々な試練に背を向けず立ち向かい、鹿鳴館の「華」は華に終わることなく、逞しく大きな実を結んだのです。