薩摩藩十一代藩主、島津斉彬(しまづ・なりあきら)。
幕末の名君と謳われ、日本の国旗、日の丸を誕生させたことでも知られますが、
そこには福岡藩十一代藩主、黒田長溥(くろだ・ながひろ)との熱き絆がありました。
実は、長溥は島津家の出身で斉彬の大伯父にあたります。
とは言っても二人は二つ違いで、兄弟のような間柄であったといわれます。
長溥は11歳の頃に福岡藩の黒田家に養子として迎えられ、やがて藩主となります。
一方、斉彬は家督相続をめぐってお家騒動が起こり、斉彬派への激しい弾圧の中、
4人の藩士が脱藩して福岡藩に逃げ込み窮状を訴えます。
薩摩藩は直ちに藩士の引き渡しを求めますが、長溥はこれを拒絶すると、
幕府老中(ろうじゅう)を通じて将軍家慶を動かし、
薩摩藩のお家騒動を鎮めると、ついに斉彬を藩主の座に導くのです。
斉彬が日本の船印(ふなじるし)、船に掲げる旗として日の丸を幕府に進言したのは、
それから3年後のことですが、薩摩藩には日の丸を赤く染める技術がなく斉彬は苦慮します。
しかし、長溥が治める福岡藩にあったのです。
穂波郡山口村の茜屋(あかねや)に伝わる筑前茜染めで、
茜草(あかねそう)から生まれる秘伝の茜色は鮮やかで美しく、日の丸に相応しいものでした。
この茜染めの日の丸が日本の国旗の始まりとなりました。
その赤き色、それは新たな時代に向かう胎動の中で懸命に生きた二人の藩主の、熱き絆の色でもありました。