2009年11月アーカイブ

11/29「直江兼続とお船」

兜の前立てに「愛」の文字を掲げたことで知られる戦国武将、直江兼続。
上杉景勝に仕えて激動の時代を戦い、上杉家を守り抜いて米沢藩の礎を築きました。
生涯の大半を戦場で過ごしたといわれる兼続ですが、実は大変学問を尊び、
貴重な書物を熱心に収集する、文武を兼ね備えた人物でした。

その真摯な姿に感銘を受けた高僧は中国の歴史書で宋版の「史記」と「漢書」
「後漢書」を兼続に贈っています。
兼続は亡くなる前年に、収集した書物を収めた文庫を創設し藩士の学びの場としましたが、
これが米沢藩の学問の礎となり、のちの藩校、興譲館(こうじょうかん)へとつながります。
この興譲館をへて今日に伝えられた「史記」は日本に現存する最古のものとして、
「漢書・後漢書」とともに国宝に指定されています。
兼続は米沢藩に、そして日本の未来に貴重な財産を残したのです。

そんな夫の志を継ぐかのように、妻のお船(おせん)は兼続が生前出版した60巻にのぼる「直江版文選(もんぜん)」を再出版しています。
「文選」は中国の優れた古典文学を収めた著名な書物ですが、
それを兼続は、当時大変珍しかった活字印刷で出版しました。

平和な時代に生まれていれば、学者として充実した人生を送ったかもしれない兼続。
そのことを誰よりも知っていたのが苦楽をともにしたお船だったのではないでしょうか。
「直江版文選」の再出版、それは夫の人生を見つめ続けた妻が最後に掲げた「愛」だったのかもしれません。

11/22「二人のテネシーワルツ」

専業主婦の暮らしをずっと続けていた美智子さん。
老後は、夫婦であちこち旅行をすることを楽しみにしていました。
ところが、その夫が、定年を迎える3年前に若年性アルツハイマーになってしまいます。
定年を待たずに会社を退職した夫を支える毎日の美智子さん。
しかし、夫の病状が悪化していくことを止めることはできません。
さらに、少しずつ記憶を失っていくことの不安から、明るい性格だった夫は鬱に陥っていきました。

そこである日、美智子さんは『テネシーワルツ』のレコードを夫に聴かせてみました。
昔、彼女が夫と出会ったのは、当時流行っていたダンスホール。
二人でペアとなっていつもこの曲で踊っているうちにお互い惹かれ、
この曲で踊りながらプロポーズもされたという思い出があるのです。
結婚してからは社交ダンスも遠ざかり、押し入れの奥にずっとしまい込まれていたレコード。
その古い歌にしばらく耳を傾けていた夫が、やがて立ち上がり、黙って美智子さんの手を取り、ダンスを始めたのです。
胸を熱くした美智子さんは、夫とのダンスを日課としました。

このことがリハビリ効果となったのか、記憶力は減退していきつつも夫は、以前のほがらかな笑顔を取り戻したのです。
「テネシーワルツでダンス」の日々は3年続きましたが、その後、夫は他の病気で寝たきりの身になり、やがて帰らぬ人になってしまいました。

現在、70歳になる美智子さん。
もし自分が死んだときは、棺にそのレコードを納めてほしいと願っています。
それがあれば天国で再び夫とダンスができる、と考えているのです。

きょうは11月22日……いい夫婦の日です。

11/15「独学少年の風力発電」

東アフリカの国・マラウイが、記録的な大干ばつに見舞われたのは2001年。
この時、小さな村に住んでいた14歳の少年の運命が一変します。

彼の名は、ウイリアム・カムカンバ。
農家の7人兄弟の2番目で、村の中学校に通っていたのですが、
大干ばつの被害で授業料が払えなくなり、学校を辞めさせられます。
そこで彼は、誰でも出入りできる小学校の図書館に通いつめ、様々な本を読み、独学で勉強を始めました。
そこで出会った一冊の本に、風力発電の風車が紹介されていました。
「これは、誰かが作ったもの。だったら、僕にもできるはず!」
ウイリアム君は、風車を作ることを決心。
当時、彼の村に電気は普及しておらず、灯りには薄暗い灯油ランプを使っていたのです。
彼は、ゴミ捨て場から自転車の部品やパイプなどを集めては、悪戦苦闘の組み立て作業を続けます。
その姿を見た村人からは、そんなものできるはずがないと鼻で笑われました。

しかし3カ月後、ついに高さ5メートルの小さな風車が完成。
取り付けた電球が光を放つと、村人たちからは一斉に驚きと称賛の声が上がりました。
村の記念すべき風力発電第1号は、4個の電球を灯し、2台のラジオを鳴らす電力をもっています。
彼の評判はどんどん広がり、各地から見学者が殺到。
やがて政府から大学に行く奨学金が認められました。
それから彼は7年の間に5基の風車を作って、村全体に電気の灯りを広げ、井戸水を汲み上げる電気ポンプも作っています。

現在21歳になったウイリアム君の夢は、よりパワーのある風車をつくって、その力で村全体に水を引いて農地を潤すこと。「何ごとも、やってみる前に諦めないで」という彼の強いメッセージは、マラウイの未来に新しい風を運んでいます。

11/8「訪問美容」

「訪問美容」という言葉をご存知ですか?
高齢者や障害者など、美容院に行きたくても行けない人のために、
その自宅に出張してカットや髪染めなどを行うサービスです。
その訪問美容の草分けが、横浜で美容院を経営する藤田巌(ふじたいわお)さんです。

彼はもともと、大手コンピュータ会社の営業マンでしたが、定年後の生き方を考えているときに、
たまたま新聞で「92歳の寝たきりの女性が美容師に髪をセットしてもらったら、元気を取り戻した」という記事を読みました。
美容という仕事は、医者にもできないことができる??そう確信した藤田さんは、福祉と美容を組み合わせることを思いついたそうです。
そして、彼は50歳にして美容学校の通信課に入学。
国家試験には3度目の挑戦で合格し、60歳で自分の店を持つという夢を実現しました。
藤田さんが訪問美容で最も大切にしていることは、とにかく相手の話を聞くこと。
お客さんの名前を最低20回は呼びながら仕事をし、同じ目線で会話をすることを心掛けています。

お客さんの一人で、左半身が麻痺し、出歩くのが困難になった方がいます。
その娘さんから訪問美容の相談を受けたときのことです。
大好きだった旅行に行けなくなって母が寂しい思いをしているという話を聞いて、
藤田さんは「それでは、秋のコスモス畑を旅行しているイメージで髪を切りましょう」と提案しました。
やがて藤田さんの手で素敵なショートカットに変身したお母さん。
それから彼女は鏡を見るのが楽しくなって、真っ赤な洋服を着るようになり、
ついには娘さんと4年ぶりの旅行に出かけるほど回復したそうです。

赤字も覚悟で踏み切った美容師への転身。
それでもお金には代えられない喜びがありますと語る藤田さん。
美しくすることで人を元気にする訪問美容の素晴らしさを伝えようと、
忙しい合間を縫って全国各地でセミナーを行っています。

11/1「ブライユの点字」

今年は、「点字」を発明したフランスのルイ・ブライユの生誕200周年にあたります。

ブライユは、12歳の少年時代に、初めて点で書かれた文字に出会いました。
それは軍事用の暗号で、兵士たちが暗闇でも情報を伝えられる「夜間書法」と呼ばれるものでした。
点で文字が表現できることを知った彼は、息が止まるほど感激します。
ところがこの方法は、長い文字では12個も点があり、なぞっているうちに前の文字を忘れてしまうという欠点がありました。
そこでブライユは、点の数を減らして一本の指先だけで判別できるようにしたいと考え、3年の歳月を費やして6点で表せる点字に改良。
わずか15歳にして、6つの点で表現できる「ブライユ点字」を発明したのです。

大喜びしたのはパリの盲学校に通う生徒たち。
これなら書物を早く読むだけでなく、自分たちの思いも6つの点で書き記すことができるのです。

ところが、ブライユ点字は公式の文字として認められませんでした。
当時は、目が不自由な人にしか理解できない文字は、健常者との壁を作ってしまう、という考えがあったからです。
盲学校の校長もこの考えに賛成だったので、ブライユの点字は使用禁止になってしまいました。
しかし、生徒たちはブライユの点字を使うことを止めません。
休み時間や放課後、密かに上級生たちは下級生たちに教えながら、20年もの間、受け継がれていったのです。

ブライユ点字がフランスで公式に認められたのは、1854年。
ブライユが43歳で亡くなった2年後のことです。
彼は生前、自分が発明した点字が公式に認められることには執着していませんでした。
ただ目が不自由な人が自由に文字を読み書きできれば??その想いがパリの盲学校の生徒たちによって受け継がれ、今こうして世界中に広まったのです。

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