2006年8月アーカイブ

8/27放送分 「夏まつり・・陽水公園」

夏も終わりを迎えようとしています。
今年は夏祭りに行きましたか?
福岡県糸田町出身の歌手:井上陽水さんの歌に「夏まつり」があります。
糸田町で幼少時代から高校生まで過ごした陽水さん。歌詞には、「セミの声」「自転車の後ろには妹」「浴衣」「綿菓子」「友だち」「笑い声」「おもちゃ売り」などの言葉があり、夏まつりの懐かしい情景や音、臭いがこみあげてきます。

その「夏まつり」の歌詞を刻んだ歌碑が今年の春、糸田町に完成しました。
高さ1.2メートル、幅1.8メートル、奥行き1.5メートルの自然の石に陽水さん直筆の「夏まつり」の歌詞が刻んであります。
糸田町の町長が陽水さんに話をもちかけたところ、快諾。式典には、お姉さんも参加し、陽水さんも「誠に恥ずかしい限りですが、亡くなった父や母も喜んでいると思います」とコメントをおくったそうです。そして陽水さんの出身校:糸田小学校の児童が陽水さんの名曲「少年時代」を合唱。糸田町では、夕方5時になると、「少年時代」のオルゴール音が防災無線で町内に流れています。夏の終わりを歌った季節感のある曲で、映画「少年時代」の主題歌としてつくられ大ヒットし、音楽の教科書にも掲載されたことがあります。

ちょうど、しあさって8月30日は、井上陽水さんの誕生日です。
全国26ヶ所32公演、7万人を動員した大規模ツアーも終え、アンコール公演へ向けてまだまだ活躍する今年58歳の陽水さん。

今年の8月も、あと4日・・・。
陽水さんの「夏まつり」そして「少年時代」の曲を聴きながら、夏の終わりをもう少し楽しんでみたくなりました・・・・。

8/20放送分 「九重キャンプ場」

なだらかな高原がどこまでも続き、あちこちで温泉が湯煙を上げる、大分県九重町。アウトドア・レジャーの人気スポットです。
そんな九重町でオートキャンプ場を経営する一人の男性がいます。日焼けした顔にキャップよく似合う・・・。彼の本職は、河川を整備したり橋を造ったりする土木会社の社長なのです。
そんなヒトがなぜキャンプ場を??「大きな声じゃ言えないが・・・・・。じつは大儲けできると思ったわけ。」彼はいきさつを話し始めました。

15 年ほど前にRV車が続々と発売されたのを見て、「これはクルマを使ったキャンプが流行るぞ」と確信。早速山あいの荒れ地を購入しました。得意の重機を駆使して整地し、水道や電気を引き、トイレやシャワーも自分で図面を引いて設計。季節の花も植えていきましたが、これには苦労したそうです。
「植えても、植えても、枯れていく・・・・。途方に暮れたよ」
それでも専門家に頼らず、失敗してもいいから自分でやってみる。これが彼のやり方なのです。
そして、3年かけてようやくオープン。
キャンプ場で大儲けする!という彼の夢は?「う?ん、100年後には叶ってるかも・・・・。」笑いながら答える彼の話を聞いているうちに、大儲け狙いは照れ隠しだということがわかってきました。
毎日いろいろなキャンパーがやって来て、知らない者同士が一緒に楽しく過ごす・・・・。そのための理想的な場を作り上げることが、彼の夢なのです。

8/13放送分 「今も生きるプレスリー」

今度の水曜日8月16日は、世界的なロックスター:エルヴィス・プレスリーの命日です。1954年にデビューして1977年に亡くなるまでのおよそ20年間、プレスリーはアメリカ・テネシー州・メンフィスで過ごしました。そのメンフィスの家に彼の死後、わずか3時間で8万人のファンが集まったといわれています。この邸宅は「グレースランド」と呼ばれ、1982年に公開されて以来、世界中から数百万人のファンが訪れています。先日(6月30日)プレスリーの熱烈なファンでもある小泉首相がアメリカを訪問した際に、ブッシュ大統領夫妻の案内のもと訪れたことでも有名です。

その「グレースランド」は、今年(2006年)3月、アメリカ国定歴史建造物に認定されました。アメリカ国定歴史建造物は1960年から指定が始まり、ホワイトハウスやブルックリン橋など、現在およそ2500ヵ所が指定されています。「グレースランド」はすべてのアメリカ国民にとって大切な数少ないもののひとつとして、ファンをはじめ様々な人の願いで長い年月をかけて認定されました。認定式典でプレスリーの娘:リサ・マリーさんは、「父と過ごした素晴らしい思い出がたくさん詰まった所」と感慨深そうに話したそうです。

1956 年にリリースした「Heartbreak Hotel」が大ヒット。その後のCD・レコードの総売り上げは推定10数億から30億枚・・・。彼が歌う曲は世界ナンバー1の売り上げといわれています。ジョンレノンやエリッククラプトン、ボンジョヴィなど数多くのミュージシャンは彼から大きな影響を受け人生すら変えたといいます。また、彼が亡くなった時、当時のカーター大統領は「アメリカは自らの一部を失った」とまで言ったそうです。今も心に生き続けるプレスリー。彼の命日を前に「Love Me Tender」のやさしく甘い歌声を聞いてみたくなりました。

8/6放送分 「広島の路面電車」

公共交通として最近、環境にやさしい路面電車が見直されています。
九州では長崎をはじめ、熊本、鹿児島で元気に路面電車が走っていますが、
今日は広島のお話です。

広島の路面電車は大正時代から現在まで休みなく走っていますが、たった一度だけ電車が止まってしまう事件がありました。
それは、61年前のきょう:8月6日。長崎に続いて広島に原爆が落とされた日です。

午前8時15分。ちょうど朝のラッシュ時で、満員の乗客を乗せた70両の電車が広島市内を走っていました。その多くの人が一瞬の閃光で、電車に乗ったまま亡くなったのです。当時は戦争で男手が少なく、女学生が運転士や車掌として乗務していたため、ひときわ女性の犠牲者が多かったのも特徴です。
焦土となった広島の町。一命を取り留めた人たちもまた肉親や仲間を失い、生きる力さえ無くしていました。
「生き残った広島市民を勇気づけるには、まず電車を動かすことだ!」
焼け出された鉄道会社の社員たちは、壊れた社屋から逃れて電車の中に本部を置き、その日の夜から包帯姿で不眠不休の復旧作業を始めたのです。
3日後、被災を免れた3両の電車が運転を再開しました。
町中に張り巡らされた路線のうちのホンの一部の区間。でも、何もかもが死に絶えた廃墟の中でゴトンと動き出した電車は、絶望のどん底にあった人々にとって、希望そのものだったのです。

それから61年の歳月。広島の人たちは路面電車を降りる時に、ほとんどの人が運転士に「ありがとう」と声をかけます。
それは、被爆後3日でいち早く運行再開を果たした路面電車への感謝の気持ちが、いまも続いているからだ、といわれています。

【訂正:8/23】
8月6日放送分に間違いがありました。
広島原爆の日は8月6日、長崎原爆の日は8月9日です。
大変申し訳ありません。
ご指摘頂いた司馬さま、番組をおききの皆様、ブログをご覧頂いた皆様、
そして、広島、長崎の被爆に苦しんでいらっしゃる方々に、深くお詫び申し上げます。
また、対応が遅くなってしまったことも改めてお詫び致します。
大変申し訳ありませんでした。
これからも、正しい情報で、心あたたまる番組制作に励んで参ります。
今後とも、よろしくお願いいたします。ご指摘、ありがとうございました。

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