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高野龍也の最近のブログ記事

筑前玄洋社 その3 人参畑塾

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 みなさん、ごきげんよう。
 第4章ライターの高野龍也です。

 この記事を書いているころ、第7章の収録が行われている(書き終わった今、終わったみたいです)途中だと思います。

 11月4日(日)19:00〜は、第3章宮崎滔天大活躍の章が放送されます。
 ボクはリアルタイムで聞けないのですが、ポッドキャスト配信もされていますので、そちらを楽しみにしています。九州の方はぜひ、ラジオで聞いてください!

 というところで、第4章の関連情報を。

 唐突ですが、ボクは高校を卒業して1年ばかり寄り道して大学生になるんですが、その寄り道期間中は博多駅前、ANAクラウンプラザのほぼ真正面にある大手予備校に通っていました。

 授業の合間、どうしても予備校の自習室で勉強することができないボクは、その予備校の裏手にある公園で本を読んだり、弁当を食べたり過ごしていたんですが、その公園の名前が「人参公園」といいました。

 変な名前の公園だな? とは思いましたが、それが玄洋社の創立メンバーと関係する場所だったと知ったのは、それから10年以上も経ってからことでした。

 江戸時代(といっても260年間もあるのですが)に、福岡藩の薬草園がここにあり、主に高麗人蔘を育てていたことから、薬草園のある一角を「人参町」と呼んでいたそうです。
 
 しかもつい最近まで、おそらく福岡市が政令指定都市になるころまでは、人参町という地名が残っていたそうです。
 福岡市は古い地名をどんどん整理して、歴史をゴシゴシと消してしまっていますが、公園名に残したりして、ちょっとフォローもしているわけです。

 さてこの人参町に幕末、高場乱(たかば・おさむ)という人が明治6年、私塾「興志塾」を開きました。通称「人参畑塾」。

 高場家は代々眼医の家系で、黒田藩藩医。「乱」という名前のこのお方は、実は女性でしたが、高場家を継ぐものとして幼いころから男性として育てられたそうです。

 乱自身、髷を結い帯刀して、男性としての人生を歩みました。
 肖像画には、牛にまたがり悠然とする姿が描かれ、まさに「男装の女傑」。

 維新後、医業のかたわら私塾を開いた理由は定かではありませんが、幕末の勤王女流歌人だった野村望東尼と親しかった乱(親戚筋という説もあり)は、福岡の若者に何かを伝えようと思ったのかもしれません。

筑前玄洋社 その2 その源流

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 幕末、薩長土肥から英傑が群がりでて、混迷した時代を若いエネルギーで時代を回天させた...。

 幕末の物語は、血沸き肉踊りますね。
 第4章のライター・高野龍也です。

 うっかりすると「オレは生まれる時代を間違えた!」などと、人が聞いたら鼻で笑うような自意識過剰なセリフを吐いたことが、ボク自身あります(もちろん、若かりしころです)。

 若くて自意識過剰で勉強不足だったボクは、そんな時「どうせなら薩長土肥のいずれかに生まれたかった」などと思ったりもしました。勝ち馬の尻に乗るような発言ですね。今考えると、本当にこっ恥ずかしいです。

 ところが、玄洋社を探っていくと、どうも筑前福岡は、幕末期のもろもろで、影響力があったことがおぼろげに分かってきました。

 まず、筑前第11代藩主黒田長溥(ながひろ)公は、島津藩主重豪(しげひで)の子どもで、薩摩藩を傾けるほどの蘭癖大名の血を受け継いで、かなり開明的でした。
 黒田藩は、肥前鍋島藩と交代で長崎警護の任を受けていて、藩士を出島に出向させ西洋の文物を盛んに取り入れていました。

 中洲に、精錬所・反射炉を建設。城下町には、藩士が時計屋や写真館を開き、蒸気機関の開発などなど、藩の近代化を進めていました。

 薩摩藩のお家騒動(お由羅騒動)に際しては、甥の島津斉彬の家督相続のために、幕府内で政治活動を行い、老中阿部正広と結んで見事成功。 

筑前玄洋社 その1

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 孫文の辛亥革命を助けた九州人ー。
 10月21日(日)の第2章では長崎出身の梅屋庄吉。11月4日(日)放送は、熊本県荒尾の宮崎滔天が語りとなります。

 というわけで、第4章担当しました高野龍也です。

 梅屋庄吉、宮崎滔天はそれぞれ、地元では見直されたり、ずっと尊敬され語り継がれるような存在なのです。

 第1章から登場し、第4章、第5章を中心にして登場する頭山満を中心とする玄洋社は、残念ながら、歴史に埋もれています。

 頭山満は、孫文の葬式にまで列席し、日中が戦争状態になったときは、孫文の後継者である蒋介石から日中講和の仲介も依頼されるなど、中華民国と長い付き合いをしました。

 玄洋社は、明治から昭和初期にかけて、政界・財界に多大な影響力があったとされています。

 第二次大戦後、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も先鋭な一派」ということで玄洋社を解散させます。
 このことがもとで、玄洋社は「どうにも怖い一派」というイメージが残り、玄洋社の荒仕事や力仕事ばかりが喧伝されるようになっているようです。

 でも、調べれば調べるほど、玄洋社にはいろいろな顔があることがわかってきます。
 
 司馬遼太郎先生は「竜馬がゆく」の中で、海援隊のことを、商業だけではなく、教育や思想の啓蒙、政党でもありメディアでもあった、という具合に、多彩な側面と後世への影響力を高く評価していますが、玄洋社もそれに匹敵するのでは? と感じるほど。

 玄洋社の前身向陽社は向陽義塾という学校を設立し、それが後の県立修猷館高校に。
 玄洋社が発刊した「福陵新報」という新聞は、西日本新聞の源流に。
 玄洋社から輩出した主な著名人は、川上音二郎、杉山茂丸、明石元二郎、中野正剛、緒方竹虎、中村天風、広田弘毅などなど。安川敬一郎、夢野久作なども、玄洋社と密接な関係がありました。

 「玄洋社あるある」のごく一部を書きだしただけですが、多彩すぎて玄洋社のなんたるかがもう説明しにくい...。
 ですが、日本の近代化とか、福岡の発展にものすごく寄与していることはわかっていただけるのではないかと思います。知らないうちに、ボクたちも玄洋社の影響や恩恵を受けているのではないかと思います。

 ボクもまだまだ玄洋社に関しては勉強中です。
 また近いうちに、玄洋社について何か書きたいと思います。

 それでは!
 
 

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