fmfukuoka

番組紹介

放送時間毎月第1・第3日曜日19:00-19:55
出演者孫文/永淵 幸利
梅屋庄吉/二橋 康浩
宮崎滔天/山下 晶
頭山満/矢山 治
平岡浩太郎/美和 哲三
宋慶齢/渡辺 美穂  他

1911年、孫文を中心人物として起こされた「辛亥革命」。
この革命に、たくさんの日本人、それも九州の人たちが関わっていたことをご存知でしょうか?
この番組は、そんな中国の王朝時代を終焉させ、共和制を確立させた「辛亥革命」に命をかけた孫文と
九州人の物語をラジオドラマとしてお送りしてまいります。


筑前玄洋社 その2 その源流

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 幕末、薩長土肥から英傑が群がりでて、混迷した時代を若いエネルギーで時代を回天させた...。

 幕末の物語は、血沸き肉踊りますね。
 第4章のライター・高野龍也です。

 うっかりすると「オレは生まれる時代を間違えた!」などと、人が聞いたら鼻で笑うような自意識過剰なセリフを吐いたことが、ボク自身あります(もちろん、若かりしころです)。

 若くて自意識過剰で勉強不足だったボクは、そんな時「どうせなら薩長土肥のいずれかに生まれたかった」などと思ったりもしました。勝ち馬の尻に乗るような発言ですね。今考えると、本当にこっ恥ずかしいです。

 ところが、玄洋社を探っていくと、どうも筑前福岡は、幕末期のもろもろで、影響力があったことがおぼろげに分かってきました。

 まず、筑前第11代藩主黒田長溥(ながひろ)公は、島津藩主重豪(しげひで)の子どもで、薩摩藩を傾けるほどの蘭癖大名の血を受け継いで、かなり開明的でした。
 黒田藩は、肥前鍋島藩と交代で長崎警護の任を受けていて、藩士を出島に出向させ西洋の文物を盛んに取り入れていました。

 中洲に、精錬所・反射炉を建設。城下町には、藩士が時計屋や写真館を開き、蒸気機関の開発などなど、藩の近代化を進めていました。

 薩摩藩のお家騒動(お由羅騒動)に際しては、甥の島津斉彬の家督相続のために、幕府内で政治活動を行い、老中阿部正広と結んで見事成功。 

 開国を求めてペリーがやってくることを、出島のオランダ商館より情報を得ると、幕府に対して開国を求める「建白書」を出し、外国との通商を求め、なおかつ海軍増強を訴えました。外様大名が、幕府に物申すのは本来ならば、藩のお取り潰しにもつながるような大問題でした。

 が、長溥が罰せられなかったのは、勤王と開国を主張しつつも、幕藩体制の保持、つまり幕府と自分自身の地位である大名を保持すべし! という、幕府からすると多少口当たりの良い意見だったからかもしれません。

 殿様がいわば「尊王佐幕」、「公武合体」論者であったにもかかわらず、部下たちの中に大変な跳ねっ返りが生まれます。

 加藤司書を中心とした「筑前勤王党」です。
 彼らははっきりとした「尊皇攘夷」をスローガンに、倒幕を意識した動きをしていました。

 加藤司書は家老だったので、藩政を掌握すると筑前藩をあげて尊攘運動へ突き進みます。京都を追放された倒幕派の公家三条実美らを太宰府に受け入れる(七卿落ち)と、太宰府の門前町には、坂本龍馬や西郷隆盛、大久保利通らが面会に訪れるほどで、一時期は太宰府が倒幕の前進基地のようになりました。

 また、薩長同盟にあたっては、坂本龍馬とともに両者の斡旋に動き、筑前勤王党は倒幕の重要な役割を担っていました。

 殿様である長溥は、自分の方針と違う! とは思いながらも「同じ勤王という思想を持っているから」と筑前勤王党の動きを黙視していました。
 が、幕府から「お前さんの主張と、お前さんの部下の行動はずいぶん違うじゃないか!」と突っ込まれ、もともと快く思っていなかった筑前勤王党を処分することになります。

 それが「乙丑(いっちゅう)の変」というわれる事件で、筑前勤王党は加藤司書ら7人が切腹。14名が斬刑、野村望東尼ら15人が島流し、関係者すべて140名が処分されました。
 明治政府樹立後、筑前からの政府への人材登用が少なかったのは、この時に人材がいなくたってしまったから、ともいわれています。

 この事件の凄惨さは、処分された人数のみならず、筑前勤王党の記録も全て抹消し勤王党自体を「なかったこと」にしてしまったことです。
 おかげで、筑前勤王党に関する資料はかなり少なく、地元福岡でも「筑前勤王党」に関して語り継げなくなっています。

 筑前勤王党のメンバーではありませんが、平野国臣という志士が活躍したことも忘れてはもったいないです。
 脱藩し、浪人として京都で活躍しました。西郷隆盛の命を救い、高杉晋作とも仲がよく、龍馬が持っていたピストルと同じものを晋作から譲り受けた、ともいわれています。
 幕末の人相書き(指名手配犯のポスターみたいなもの)では、西郷、高杉、とともに並んで描かれ、当時はかなりの認知度があったようです。
 平野國臣の銅像は西公園にあり、明治通り沿いに平野國臣を祀る「平野神社」がありますので、見学されると良いです。

 乙丑の変で父を失った建部武彦が、西郷隆盛の下野とともに反乱を企画したことで、玄洋社が誕生します。
 また、玄洋社総帥頭山満は、平野國臣をとても評価する談話を残しています。

 玄洋社までたどり着くのに、かなりの文字数を要してしまいました。玄洋社は改革や革命を志していた、筑前の男たちの血をかなり濃く受け継いでいるようです。
 また、明治維新というか尊皇攘夷運動は、アヘン戦争でボロボロにされた清国の惨状を知ったことが要因の一つともいわれています。
 長崎を通じて、筑前藩士たちがその惨状を知り、地政学的に大陸に近い福岡で危機感が高まったことが、筑前勤王党が生まれた理由かもしれません

 玄洋社が、孫文の革命を助けるのは、必然だったのかもしれません。

(高野龍也)

コメント(2)

 黒田長溥率いる福岡藩は「長州周旋」と「全国一和」を推し進めました。「長州周旋」とは福岡藩の政治運動で、幕府と長州・薩摩と長州の対立を調停し和解に導くものであり、「全国一和」とは内乱を回避し、平和的に富国強兵を図るもの。
 その意に反して、筑前勤王党は先鋭化し血生臭い事件を起こしたりしました。無論、加藤司書は抑えようとしましたが、中村円太などがね・・・。
 筑前勤王党はまだ郷土史家の間で語り告げられるからいいですが、佐幕派の藩士はどうでしょう?
 暗殺された牧市内や、反動処分された浦上信儂・野村東馬・久野将監が日の目を見る事は殆どないです。
 天神の安国寺と博多の妙楽寺にて見事に果てた浦上信儂・野村東馬・久野将監や、地行で暗殺された牧市内ももっと語り継がれるべきだと思います。


筑紫弾佐衛門さん

ありがとうございます。
そうですね、
歴史の中に埋もれたままで、いずれ掬いあげねばならないことがたくさんあります。
この物語は、孫文軸ですので、玄洋社の全容をとまではいきませんが、そういう組織があったという興味の入り口となっていただけるように作られております。
まだまだ多くいる福岡志士の逸話は、また機会を多く生み出せるよう努力いたします。

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