fmfukuoka

2012年11月アーカイブ

【その7】玄洋社を描く章

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こんにちは 監修の阿久根です。

第4章と第5章は玄洋社が軸となる物語です。

第4章の執筆担当は、ここで玄洋社の記事をアップしてくれています高野龍也さん。

「玄洋社の章をやりたい」

と最初に高野さんが言ったので、お任せしまして...

ところが、この玄洋社の描き方が非常に難しかったりするんです。

玄洋社は、どうも日本の右翼組織の始まりみたいな位置づけがありまして、内容にもデリケートな部分があるんですけど、
それよりも、福岡の経済界としては、ざっくりと、ぼんやりと―――

なにやら危険な組織

と、思われている現状を、なんとかしたいという願いがあり、
玄洋社の名誉をなんとか回復させてほしいとの依頼もあったのでございます。

あー

幕末に、《新選組》というメジャーな組織ありまして、
ありゃー過激な集団で、粛清という名の下に組員同士で殺し合ったりなんかしちゃってますが、
玄洋社みたいな怪しさや怖さを巷間はちっとも感じておりません。

なぜなら、それらをドラマチックに描いた著作が多くあるから。

土佐勤皇党の暗殺も、桜田門外の事件も...政治や思想関連の殺人であるに関わらず、
それからちょっとあとの維新後に誕生した玄洋社という組織は、
歴史オタクが感じるロマンもないまま、ただ怖がられているという状態です。

なんで、赤穂浪士が主人の仇として、善政を布いていた吉良の首をとったのが美談で、
なんで、来島が、政府に異を唱えて、爆弾で大隈重信の脚をとばしたのが怖い事件となるのか...(怖いですけども)
玄洋社がなぜ怖い組織というレッテルを貼られたままでいるのかというと...
それは、よく知らないから、それを元にしたグッドな著作も少ないから、でしょうね。

なので...僕は高野さんに相談して、
ここは、玄洋社総帥、頭山満の苦悩を描いてみましょうと言ってチャレンジしてもらいました。

でも、ただ時事を並べて、これが正しい歴史として描いてもダメです。
そんなこっちゃ誰にも知られないまんまで終わりますわね。
そこは、司馬遼太郎が坂本龍馬を作り込んじゃったばりのエンタメ感が必要なワケで、
より劇的さを盛らなければならないのです。

それで、冒頭の始まりが、西郷隆盛の死を獄中で知って大暴れするというシーンになったワケです。

高野さんに、派手に書いてもらいました。

あと細かな描写は所々僕手伝いましたけど、高野さんの始めてのドラマ執筆はいいドラマになったと思います。

で、

第4章は、頭山の視点で物語が進みます。

また例の様に、前の章と同じシーンがあったりするんですけれどもね...

滔天が頭山を訪ねてくるシーンは、滔天が主役の第3章にもありましたが、
実は、これはまったく同じシーンを別の日に録っているんです。

滔天の時には、滔天目線なのでちょっと緊迫した空気があるんです。
頭山のセリフのタメも若干長めだし、言葉も静かに強い。
これは、滔天がそう感じたというシーンになっているのです。

一方、第4章の同じシーンは少し軽めで、頭山のセリフもすんなりです。
これは、頭山が滔天とのやりとりを楽しんでいるだけなので、こんな風になってます。
頭山目線なので緊張はありません。
頭山にとっては、こんなシーンであったということですね。

実験的ですけど...各章を楽しめるようにいろいろやっているワケです。

それと、頭山が孫文に会いに行く時、干物を持って行きますが、本来なら
「これで一杯やろうと思って」
と言わせたいところを...
頭山が酒を飲まないことから、
「これを二人で食べようと思ってきた」
としていたのですが...

最後の進藤が「飲むか」と言った時、頭山のナマ返事具合が飲めそうなリアクションになってますけどね。
頭山、酒もタバコもやりません。


あ、それと最初に玄洋社の説明を、特別にこの章だけ入れさせてもらいました。
それを知って聴いたほうがいいと思って。

玄洋社という組織の活動資金は炭鉱経営であったということも、博多港が貿易港として成り立っていなかったことも、
時代背景として盛り込んでおいて、実は、北部九州での産業活動に深く関わっていたことも描いておきたかったので、
この章にいろいろと背負わせてしまいました。


高野さん、玄洋社の記事、またお願いいたしますねー。

250px-Toyama_Mitsuru.jpg

続いての第5章は、平岡浩太郎の視点で展開する物語です。
放送は12月2日の19:00でございます。

過去放送分のポッドキャストは下よりどうぞ↓

第1章『中国革命への道』 主役 孫文
作演出 阿久根知昭

第2章『君は兵をあげたまえ』 主役 梅屋庄吉
作演出 日下部 信

第3章『大陸浪人の夢』 主役 宮崎滔天
作演出 阿久根知昭

第4章『大アジア主義』 主役 頭山満
作演出 高野龍也/阿久根知昭


監修 阿久根知昭

第4章ポッドキャスト配信

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2012年11月18日放送
第4章「大アジア主義」を配信します。
MP3というサイズに圧縮しておりますので、
音のクオリティは下がっていることをご了解ください。
以下をクリックしていただければ聴くことができます。
また、ご意見などありましたら、
コメントに書き込みしてください。
今後の参考にさせていただきます。

企画、構成、作曲担当:大塚和彦


絆よ、悠久なれ121118放送分Podcast.mp3

監修の阿久根でございます。

いろんなことに忙殺されて、ここの記事が遅れてしまいました。

3章の執筆をさせていただきましたが、この章の主役は宮崎滔天でした。

元々滔天は人気者ですから、おそらくリスナーの方々もすんなり聴いてくれる章だと思っていまして、まー書き過ぎましてね...

3分の1程カットしてしまいました。

滔天に影響を与えた兄の弥蔵のセリフは、重要人物なのにまるまる無くなりましたもんね。

でも、この章は評判が良かったようでして...熊本の小学校4年生の男の子が、
たまたま親の運転する車の中でこれを聴いて、面白い!と言ってくれたとか...

ご夫人方にも、分かり易く面白く聴けたとの報告がありましたが...
どれもこれも単に滔天のキャラクターの牽引によるものであろうと思われます。

かっちりとした口調で孫文が語る第1章よりも、
熊本弁で豪快に見たことを噛み砕いていく滔天のほうが面白いですよね。

この滔天役の山下晶さんは、ネイティブな熊本弁を喋れるというのがあって、この企画当初から、


「滔天は自分が演じたい」


と、言ってまして...そこは熱演していただいて作品のグレードをグンと上げてもらっているんです。

退屈になりがちなモノローグは、滔天が語ると面白くなるだろうと思って書きましたけど、
それはそれで、今度は滔天に頼ってしまったりもするワケで...

もー、困ったら滔天。
詰まったら滔天。
でございました。

滔天主役の章は、このあと第6章があります。

それはですね...

滔天を演じている山下晶さんが執筆しているんですね。
山下晶さんは作家として書いて演出して演じていますので、それも楽しみにしてくださいね。

てな風に、ハードルをグーンと上げておいて記事を締めることにいたします。

宮崎滔天のいろんな逸話についてもきっと山下さんが語ってくれます...
ここでね。

それもお楽しみに。

じゃ。

とうてんそんぶん.jpg


監修 阿久根知昭

第3章、ポッドキャスト配信

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2012年11月4日放送分のポッドキャストです。
無料配信ですので、過去の放送をお聞き逃しの方は、
第1章からお聞きいただけると、より一層お楽しみ、
いただけるのかもしれません。
よろしくどうぞ。

絆よ、悠久なれ121104podcast.mp3


企画、構成、作曲担当、大塚和彦

筑前玄洋社 その3 人参畑塾

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 みなさん、ごきげんよう。
 第4章ライターの高野龍也です。

 この記事を書いているころ、第7章の収録が行われている(書き終わった今、終わったみたいです)途中だと思います。

 11月4日(日)19:00〜は、第3章宮崎滔天大活躍の章が放送されます。
 ボクはリアルタイムで聞けないのですが、ポッドキャスト配信もされていますので、そちらを楽しみにしています。九州の方はぜひ、ラジオで聞いてください!

 というところで、第4章の関連情報を。

 唐突ですが、ボクは高校を卒業して1年ばかり寄り道して大学生になるんですが、その寄り道期間中は博多駅前、ANAクラウンプラザのほぼ真正面にある大手予備校に通っていました。

 授業の合間、どうしても予備校の自習室で勉強することができないボクは、その予備校の裏手にある公園で本を読んだり、弁当を食べたり過ごしていたんですが、その公園の名前が「人参公園」といいました。

 変な名前の公園だな? とは思いましたが、それが玄洋社の創立メンバーと関係する場所だったと知ったのは、それから10年以上も経ってからことでした。

 江戸時代(といっても260年間もあるのですが)に、福岡藩の薬草園がここにあり、主に高麗人蔘を育てていたことから、薬草園のある一角を「人参町」と呼んでいたそうです。
 
 しかもつい最近まで、おそらく福岡市が政令指定都市になるころまでは、人参町という地名が残っていたそうです。
 福岡市は古い地名をどんどん整理して、歴史をゴシゴシと消してしまっていますが、公園名に残したりして、ちょっとフォローもしているわけです。

 さてこの人参町に幕末、高場乱(たかば・おさむ)という人が明治6年、私塾「興志塾」を開きました。通称「人参畑塾」。

 高場家は代々眼医の家系で、黒田藩藩医。「乱」という名前のこのお方は、実は女性でしたが、高場家を継ぐものとして幼いころから男性として育てられたそうです。

 乱自身、髷を結い帯刀して、男性としての人生を歩みました。
 肖像画には、牛にまたがり悠然とする姿が描かれ、まさに「男装の女傑」。

 維新後、医業のかたわら私塾を開いた理由は定かではありませんが、幕末の勤王女流歌人だった野村望東尼と親しかった乱(親戚筋という説もあり)は、福岡の若者に何かを伝えようと思ったのかもしれません。

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