テーマ「官兵衛 ゆかりの地 福岡」 - 教えて!コンシェルジュ! | FM FUKUOKA
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   テーマ「官兵衛 ゆかりの地 福岡」

黒田官兵衛。軍師として、そして、日本の未来を見て、戦乱の世を治めた人物。
福岡を作った男、福岡と名付けた男・・・そして、日本を救った男として、
その魅力的な人物像は、大河ドラマ人気も相まって、今、様々なところで
取り上げられています。そこで、今回も、黒田官兵衛についてのお話しです。
コンシェルジュは、NPO法人福岡城市民の会 理事長の石井幸孝さんです。
福岡城市民の会→http://fukuokajokorokan.info/

今村「官兵衛が福岡に入ってきたのは何がきっかけだったんですか?」
石井理事長「信長が亡くなり、秀吉の軍師になった時です。
  秀吉は、天下を統一するために、中国地方から、九州へ入っていくんです。
  黒田官兵衛40歳の時なんですが、その九州へ入って来る時の総大将みたいな
  役割を担っていたのが、黒田官兵衛だったんです。
  そして、九州で起こる戦いを 一つ一つ治めていったんです。その功を認めて
  秀吉は、中津(当時の豊前の国)に領地を授けます。
  しかし、その前の九州平定の時に、博多でも戦いがあり、一面焼け野原になって
  しまうんです。しかし、博多は2000年も前から、チャイナタウンなんかもあって
  中国の商人と 日本人が一緒に商売を行っていた経済都市であり、博多商人が
  自由に商売などをしていた商業都市でもありました。そこが戦乱の中で1回
  壊滅したので、秀吉は、博多の復興をしようということで、博多の復興をする
  親分として、官兵衛を任命したんです。」

今村「へぇ。そうなんですか!!」
石井理事長「で、その復興するときに町割といって、例えば
  今の博多の道は碁盤目になっていて、山笠も流れがいくつかあるけども、
  そういう 街づくりをやっていくんですよ。これは秀吉と官兵衛が、福岡と言う街は、
  とても大切だと言う事を言っていたからです。
  その功を認められ、中津12万石の城主となるわけです。」
<町割>
まちわり_450.jpg
しかしながら、この時代あたりから、秀吉との関係もぎくしゃくしていくそうです。
その一つが、キリスト教です。キリスト教は、信長の時代から日本に入ってきていました。
官兵衛は、西洋文化としての「キリスト教」を崇拝し、冷静なクリスチャンとなるのです。
しかし、秀吉は、キリスト教に対して、禁教令を発布します。
官兵衛.jpgのサムネール画像
官兵衛は、他のキリシタン大名とは一線を画したクリスチャンで、他の大名が
武器などを宛てにしてクリスチャンになっていたのとは違い、自らの人生観や西洋文化としての
「キリスト教」を崇拝し、クリスチャンになったのではないか?と言う説もあります。

大分にいた頃、官兵衛から如水と名を変えて、家督も息子の長政に譲っています。
一線を退いた形になります。しかしながら、関ヶ原の戦いなどでも、陰から指揮を
取っていたと言われています。(黒田は徳川の東軍に付き、見事勝利を治めます)
官兵衛の予想に反し、この天下分け目の戦いは、半日で幕をおろすこととなります。

ここで、こんな有名なお話があります。
戦いから戻った長政。家康から大変褒められ、3度手を握って、長政がいてよかった、
と褒められた。その時官兵衛は、それはどちらの手だったかと長政に問います。
長政は右手だったと答えます。すると官兵衛は、その時 左手は何をしていた?と問うた
そうです。その時に家康をやってしまえば 天下が取れた!と言う話ですが・・・
これはあくまで作り事なのだそうです。
官兵衛は、ただただこの戦乱国家を終わらせたかっただけじゃないかと、石井さんは
考えていらっしゃいます。
官兵衛の息子 黒田長政
黒田長政_450.jpg
官兵衛は、家康の安定国家を、日本の戦乱を治めるための手段として望んでいたのだそう。
そのことは、息子の長政にも言い聞かせていたそうですよ。

              福岡城と黒田官兵衛
            福岡城_450.jpg

関ヶ原の功績を讃え、家康は黒田官兵衛と長政に筑前の国一国を与えます。
52万3千石です!!これは大大名と言われます。
福岡平野のちょっと小高い丘のようなところにお城を作りました。
中津の時からですが、3角形の形をしたお城を作っています。
しかしながら官兵衛はお城が完成する前に亡くなるのですが、このお城の地名はもともと
福崎と言われていますが、長政が先祖ゆかりの地名(岡山県福岡)をつけ
「福岡」となります。

福岡のシンボル「福岡城」を築くと、次に城下町を作ります。
しかし...他の城下町と一味違う城下町だったそうで、博多を壊さなかった。
昔からの商人を戻し、武士を住まわせずに、商人を住まわせました。
(ここは、西洋の都市でよく見られた構図です。)
博多と福岡 商人と武士を別の場所に住まわせ、年に一度は無礼講で、
商人をお城に招待する、という 今の「博多どんたく」のルーツも官兵衛によるもの
なのだと言います。

鎖国をした時でも、黒田藩は外交を絶やすことも無かったそうです。
大河ドラマで、この博多が舞台になりますが、このあたりの顔が描かれていると
もっと深く官兵衛を知ることができますよね!!

オンエア曲
カントリー・ロード/ジェイムス・テイラー
カヌー  / 奥田民生


パーソナリティ


今村敦子

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