テーマ「軍師 官兵衛」 - 教えて!コンシェルジュ! | FM FUKUOKA
fmfukuoka

             テーマ「軍師 官兵衛」

今回のテーマは、今大河ドラマで 高視聴率をたたき出している、福岡県にも
ゆかりの深い、黒田官兵衛をピックアップしました。
黒田官兵衛の人となり、そして、何をした、何をしたかった人なのかを
2週に渡ってお送りしました。
黒田官兵衛について語って頂いたのは、NPO法人福岡城市民の会理事長の
石井幸孝さんです。
今村「NPO法人 福岡城市民の会って??」
石井理事長「福岡の街のど真ん中に大濠公園と舞鶴公園があると
  言いますが、実はあそこは福岡城だったんですよね?あそこは昔のまま、48万平米
  残っているんです。で、あそこは、1300年前に古代の迎賓館とも言える
  鴻臚館のあったところなんです。」


鴻臚館_450.jpg
鴻臚館とは・・・平安時代に築かれた外交のための迎賓館。平安京(京都)、難波(大阪)、
そして筑紫(福岡)の3ヵ所に設けられた。その中で唯一遺跡が確認されているのが現福岡市中央区にある筑紫の「鴻臚館」なのだ。文献上には持統2年(688)、「筑紫館(つくしのむろつみ)」として初めて現れ、平安時代になって中国風の「鴻臚館」という名に変わった。7世紀後半から11世紀まで約400年の間、遣唐使や新羅の使節団、商客らを迎え入れたとされる。昭和62年(1987)、
平和台球場外野席改修の際、遺構の残存が発見され、翌年から発掘調査が始まった。展示館では遺構や大陸外交の歴史、交易品などが見られる。

石井理事長「官兵衛は、鴻臚館がそこにあったのを知っていて
  福岡城を築いたんだと思うんです。で、この福岡城が、このままではもったいない!
  と言う事で、復元整備をしたい。そして、もっと福岡市民がここを訪れてもらいたい!
  石垣だけしか残っていないので、みんながここにお城があった事を認識していない。
  このお城を、大いに活用していこうと活動しているのが、NPO法人福岡城市民の会
  なんです。」

  そして、福岡城をなんとかしよう!そして、その追い風となっているのが、
  黒田官兵衛です。黒田官兵衛と福岡の関係って??

官兵衛.jpg
石井理事長「官兵衛は、前半は中国地方で主に活躍して、
  後半に九州、福岡に舞台が回ってくるんですよ!で、彼を一言で言うと

             福岡を作った男なんですよ。 
  そして・・・
       福岡と言う名前を付けた男でもあるんですよ!

  それから、もう一つ言わせてもらえれば、
            日本という 国を救った男なんです。」

  黒田官兵衛を語る時に、最後の結論として、この3つだと
石井理事長は教えてくれました。

黒田官兵衛の生い立ちなどは、様々な資料がネットや文献で残っているので、
  そちらを調べてみて下さい。

石井理事長「軍師官兵衛と言いますが、それは前半までの事。
  で・・・官兵衛自身も天下を取りたかったんじゃないか?と言われてますが、
  彼の人生は50年かけて天下を取る為ではなく、200年、300年の日本の安定国家を
  作ることに懸けたんです。」
  
  当時からとても頭が良かったと言われる官兵衛は、文学にも精通していて、
  和歌や万葉集、歴史書なども読んでいたと言われ、文武両道の子供時代を
  送ったと言われます。
  また、大変人間性の強い人物でした。生涯奥さん1人で生涯一緒に暮らしました。

今村「とても現代人に近い感覚を持った官兵衛さん。性格は
  どんなだったと、石井さんは思われますか?」
石井理事長「非常に正義感の強い人物、また博愛で、
  当時には珍しい崇高な人物だったそうですよ。ですから、戦いも、血を流さないで
  戦いを収めると言う事を考えてました。」

また、毛利と織田の戦いの際には、織田側に付くことを勧めたり、そこから織田信長との
交流も始まっていきますが、そののち、本能寺の後は豊臣秀吉に助言し、2人の
天下人の陰になり サポートしていました。
また、福岡と言う地名も、幼少時代過ごし、黒田家が財を成していた土地が「ふくおか」だった
ことから、この地を「福岡」と名付けたとも言われています。
まさに、名付け親であり、福岡を再生した男なんです。

黒田官兵衛については 次回もお話をお伺いします。

今回のオンエア曲
この愛が届くように / ナラダ・マイケル・ヴォルデン
ララル  / 斉藤誠

  


  

  

  

  

  

パーソナリティ


今村敦子

月別アーカイブ