2019年9月アーカイブ

2019年9月28日「もうひとつの金メダル」

日本の柔道が初めて公式種目となった1964年の東京オリンピック。
金メダルの大きな期待がかかる無差別級の決勝で、日本の精鋭・神永昭夫と対戦したのはオランダのアントン・ヘーシンクでした。

ヨーロッパで活躍していた日本人柔道家・道上伯に見出されて指導を受け、さらに来日して講道館などで稽古を重ねた柔道一筋の努力家ヘーシンクは、世界柔道選手権第3回大会で外国人として初の優勝を果たした強豪でした。

神永とヘーシンクの決勝戦は大接戦となり、残り時間わずかで、ヘーシンクが袈裟固めで神永を押さえ込み一本勝ちを決めます。
その瞬間、日本の敗北に静まりかえる大観衆。
喜びを爆発させヘーシンクのもとに駆け寄ろうとするオランダチーム。
それを押さえ込みの体勢のまま手を上げて厳しく制したのはヘーシンクでした。
「畳に上がってはならない」
勝利を喜ぶ前に、対戦相手に礼を尽くして畳を下り闘いを終える。
日本柔道の礼節を守ったのです。
その後、恩師道上のもとへ向い深くお辞儀をして礼を尽くしたヘーシンク。

表彰式後の記者会見で彼はこう語っています。
「これは日本が獲ったもうひとつの金メダルです」
技と心、礼儀としての文化を教えてくれた日本柔道への感謝を伝えたかったのかもしれません。

2019年9月21日「初めてのホームラン」

2008年4月26日に行われた全米の大学女子ソフトボール選手権の決勝戦で、オレゴンとワシントンのチームが戦ったときのこと。
ランナー二人を出してオレゴンの4年生サラが打席に立ちました。
サラはチームで一番体格が小さく、4年間の選手生活で一度もホームランを打ったことがありません。

ところが、彼女がフルスイングした打球はぐんぐん伸びてフェンスを超えます。
「ホームランだ!」
サラは大喜びで走りました。
が、興奮のあまり足がもつれて膝の靭帯を切り、1塁ベースで倒れ込んでしまったのです。

サラにとって初めてのホームラン。
けれど、塁を回ってホームを踏まなければ成立しません。
またチームメイトが支えて歩かせることはルールで禁じられています。
チーム全員が途方に暮れたそのとき、1塁を守っていた相手チームの選手が審判に声をかけました。
「私たちが彼女を運びます」

味方ではなく相手チームの選手がランナーの体を支えることを禁じるルールはありません。
こうしてサラは相手チームの二人に両脇を抱えられて塁を回ったのです。

サラも相手チームの二人も、だんだん自分たちのやっていることがなんだか可笑しく思え、くすくす笑いながら塁を回っていきました。
そんな3人を、ホームベースではチームメイト全員が涙を流しながら迎えたそうです。

2019年9月14日「キョウスケとハジメ」

日本を代表する言語学者、金田一京助。
盛岡出身の彼が中学校時代に出会ったのが、3年後輩の石川一でした。

当時文学を志していた京助は、文才溢れる一と意気投合して短歌の同好会を結成。これが二人の友情の始まりでした。
その後京助は上京して言語学の勉強に励みますが、京助を追うように彼の下宿先に転がり込んだのが一です。

一は変わらず文学に情熱を注ぎますが、社会人としては経済観念がなく生活力に乏しい若者でした。
自身も貧しい暮らしをしていた京助ですが、一のために同じ下宿先に部屋を取ってあげたり、爪に火をともすような思いで集めた蔵書を売り払って作ったお金で下宿代を立て替えてあげたりと、物心ともに一を援助したのです。
やがて京助は結婚して家庭を持ち、暮らしに追われながら言語学の研究に邁進しますが、それでも一への惜しまぬ援助は続きました。

なぜ京助はそこまでするのか...。
それはかつて同じ文学の志で結ばれた友情だからこそ、自分の文学への夢を、才能ある一に託しその夢を後押しすることが使命だ、と考えたのかもしれません。

一は不遇のまま26歳の若さでこの世を去りますが、石川啄木のペンネームで出された歌集『一握の砂』『悲しき玩具』のおよそ800首の歌は、後世の読者の胸を震わせる名作として光り輝いています。

20世紀最高の物理学者といわれるアインシュタインですが、人物としてはお茶目な性格でした。

相対性理論を発表した彼は全米の大学で講演をする毎日を過ごしていました。
その講演を毎回聴いていたのが、お抱え運転手のハリー。
ある日、ハリーは車を運転しながら後部座席のアインシュタインに話しかけます。
「私は先生の講演をもう30回ほど聴いてすっかり暗記しました。先生の代わりに同じ話ができるかもしれません」

「これは面白い」と思ったアインシュタイン。次に講演する大学では自分の顔を知る者はだれもいません。
「ではハリー君。きみが私に成り代わって講演をしてもらおう。私はお抱え運転手としてその講演を拝聴するよ」
こうして、ハリーはアインシュタインに成り切って見事に講演をやり遂げたのです。

ところが、教壇から下りようとしたハリーの前に一人の研究者が立ちはだかり、相対性理論についての質問をしました。
それは極めて高度な内容で、話を丸暗記しただけのハリーに答えられるはずはありません。
しかし壇上のハリーは涼しい顔でこう言いました。
「その質問はとても簡単です。私が答えるまでもないので、代わりに私の運転手に答えさせましょう」

そう言って指差したのは、後方に座っている本物のアインシュタインなのでした。

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