数ある穀物の中でも、大麦は成長が早くて収穫までが短く、乾燥や寒冷にも強いため、日本でも古くから栽培され麦飯として多くの命を支えてきましたが、江戸時代の享保の大飢饉のときに麦を守るために命を捧げたのが松山藩の農民、作兵衛でした。
餓死する者が相次ぐ中で懸命に畑を耕し続けた作兵衛は、ついに倒れますが、家には麦俵がひとつ残されていたのです。
それは畑に蒔く種麦でした。
命には代えられぬと食べることをすすめる村人達に、作兵衛は
「一粒の麦が来年には百粒にも千粒にもなる。自分の命をしばし長らえるために食しては種は残らぬ。幾多の命を救えるなら我身は犠牲になっても本望」
と食べぬまま亡くなります。
心打たれた村人達は翌年、作兵衛が残した麦を大切に蒔いて育て、飢饉を乗り切ったと言われます。
また、これを知った松山藩は年貢の軽減や免除を行いました。
その後、八代藩主 松平定静は作兵衛を、義を重んじた農民「義農」と称え、石碑を建立してその功績を永く伝えました。
人のために尽くす義農作兵衛の精神は脈々と受け継がれ、毎年4月には義農祭が開かれ多くの人が集います。
作兵衛のひとつの命が尊い種となって、未来に多くの命と心を育んだのです。