2018年4月アーカイブ

2018年4月28日「命の種」

数ある穀物の中でも、大麦は成長が早くて収穫までが短く、乾燥や寒冷にも強いため、日本でも古くから栽培され麦飯として多くの命を支えてきましたが、江戸時代の享保の大飢饉のときに麦を守るために命を捧げたのが松山藩の農民、作兵衛でした。

餓死する者が相次ぐ中で懸命に畑を耕し続けた作兵衛は、ついに倒れますが、家には麦俵がひとつ残されていたのです。
それは畑に蒔く種麦でした。

命には代えられぬと食べることをすすめる村人達に、作兵衛は
「一粒の麦が来年には百粒にも千粒にもなる。自分の命をしばし長らえるために食しては種は残らぬ。幾多の命を救えるなら我身は犠牲になっても本望」
と食べぬまま亡くなります。

心打たれた村人達は翌年、作兵衛が残した麦を大切に蒔いて育て、飢饉を乗り切ったと言われます。
また、これを知った松山藩は年貢の軽減や免除を行いました。

その後、八代藩主 松平定静は作兵衛を、義を重んじた農民「義農」と称え、石碑を建立してその功績を永く伝えました。

人のために尽くす義農作兵衛の精神は脈々と受け継がれ、毎年4月には義農祭が開かれ多くの人が集います。
作兵衛のひとつの命が尊い種となって、未来に多くの命と心を育んだのです。

2018年4月21日「再会したハチ」

昭和9年のきょう4月21日、東京・渋谷駅前に忠犬ハチ公の像が建立しました。
主人の帰りをずっと待ち続けたハチの話は海外でも有名ですが、ハチの主人・上野英三郎のことを知る人はあまりいません。

彼は東京帝国大学の教授で、農業土木・農業工学の父と呼ばれる博士です。
上野博士は政府の委託を受け、20年間で3000人を超える農業土木技術員を育成。後の関東大震災から東京を復興する重要な役割を果たしています。
そして農業土木の発展に尽くした者を毎年表彰する上野賞が設けられました。

農業土木の世界で偉大な功績を残した上野博士ですが、私生活では大の犬好き。
昔は外で飼うのが当たり前だった犬を自分のベッドの下に寝かせたり、一緒に食事したり風呂に入ったり、少しでも時間があれば散歩に連れていくなど、ハチをとても可愛がっていたのです。

平成27年、東京大学農学部のキャンパスに上野博士の功績を記念して銅像が建てられました。
博士の銅像のそばにはハチの像。
博士に嬉しそうに飛びつくハチと、少し屈みながらハチが飛びついてくるのを優しい眼差しで見つめ、首元を撫でている上野博士が表現されています。

渋谷駅前のハチは永遠に主人の帰りを待ち続けていますが、ここのハチは銅像になってついに主人と再会できたのです。

2018年4月14日「ヘレン・ケラーの来日」

昭和12年4月15日、横浜港に着いた客船から降り立ったのは、ヘレン・ケラーです。

視覚と聴覚の二重障害を背負いながら障害者の救済に活躍するヘレンは日本でもよく知られ、熱烈に歓迎されました。
彼女は4カ月の日本滞在の間に全国各地で講演し、日本に障害者対策の必要性を呼び起こしました。

そんな彼女の全国行脚の様子がその都度新聞で紹介されましたが、その中に、じつは来日した直後の彼女が横浜港の客船待合室で何者かに財布を盗まれる事件があったことが報じられました。
すると翌日、ヘレンの宿舎に匿名の男性から盗まれた財布と同額の現金が届けられ、さらには全国からヘレン宛てにお詫びの手紙とともに寄付が殺到したのです。

そのことに感激したヘレンは寄付金をそのまま障害者事業に寄贈し、次のような談話を発表しました。
「私は盗んだ人の事情に同情しこそすれ、その人を憎んだり日本を泥棒の国だと誤解するようなことはありません。むしろこの出来事によって日本の方々から大きな思いやりを寄せられ、また国民がお互いに助け合うという日本人独特の精神を知って、本当に嬉しく思います」

その言葉の通り、ヘレンはその後、大の親日家となって戦後の昭和23年、昭和30年と三たび来日を果たし、やはり熱烈な歓迎を受けました。

この春に90回目を迎えて開催された選抜高等学校野球大会、通称センバツは、過去に一度存続の危機がありました。

昭和27年から太平洋戦争のために中断。
戦後になると甲子園球場は連合国軍総司令部:GHQによって接収され、アメリカ軍兵士たちの駐屯基地になったのです。
そこで夏の大会は西宮球場を使って昭和21年に再開しますが、センバツ大会の関係者は甲子園球場で復活することを目標にGHQに直談判に乗り込みます。

対する相手はノーヴィル少佐。
大会関係者は彼にセンバツの歴史を説き、ファンの期待を訴えました。
通訳を務めたのは三宅悦子さん。GHQに雇われていた職員です。
しかしノーヴィル少佐は首を縦に振りません。
それどころか
「全国大会は年1回でいい。夏の大会があるのだからセンバツ大会は廃止にしたまえ」
と言う始末です。

その風向きを変えたのが三宅さん。
通訳を頼まれもしないのに、少佐に向かってやんわりとこう呟いたのです。
「少佐、あなたがそんなに頑張って大会を中止させたら日本人に一生恨まれますよ」
この一言で少佐はちょっと考える振りをして、こう答えました。
「あまり無理は言いたくない。ま、今年限りは認めよう」

昭和22年にセンバツ大会は甲子園で復活。
それからもずっと甲子園で開催されています。

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