2015年12月アーカイブ

12/27「市長のホラ貝」

今年、福岡でも野生の猿が住宅街に現れるなど問題になりましたが、昭和20年代に、この問題に直面した地域がありました。
猿が田畑を荒らし農作物への被害が相次いだのです。
戦後の厳しい食糧難の時代であったため、猟銃による猿の駆除が許可される深刻な事態へと発展します。

この状況に胸を痛めたのが市長でした。
「野生の猿と人間が共存共栄できる道はないのか」。
そこで閃いたのが猿の餌付けでした。
山の麓のお寺の住職に協力を呼びかけ、市長自らもホラ貝を吹いてはリンゴやサツマイモを置く餌付けが開始されます。

しかし、猿は警戒してなかなか食べてくれません。
しかも市は財政難で、その対策に職員の削減に取り組んでいた市長は、公金で猿に餌を与えることを強く非難されます。
それでも市長は「餌付けに成功すれば観光資源になり市の財政を潤す」と訴え諦めませんでした。
そしてついに猿がサツマイモを食べ、ホラ貝で集まるようになったのです。
こうして昭和28年に誕生したのが、野生の猿と人間が触れあう観光名所、高崎山自然動物園でした。

アイデアと行動力で戦後の大分を復興に導いた上田市長。
来年は申年ですが、身近な野生動物といかに暮らしていくのか、私達の知恵と行動力を山の猿達が見守っていることでしょう。

12/20「霧笛」

きょう12月20日は「霧笛記念日」。
霧の笛と書いて霧笛。明治12年のこの日、青森県の尻屋崎灯台に日本初の霧笛が設置されました。

船は灯台の光を頼りに夜の海を航海しますが、霧や吹雪で視界が悪くなると光が届きません。
そんなとき音を使って灯台の位置を知らせるのが霧笛です。
海に向かって鳴らされる「ボオーッ」という重低音。
霧に閉ざされた沖合でそれが聞こえると、船乗りたちは励まされ、港は近いと一安心するそうです。

五里霧中の海を航海する船の頼もしい道標「霧笛」は、町で暮らす人々にも親しまれてきました。
SF作家のレイ・ブラッドベリは、ある夜、誰かの呼び声を聞いたような気がしてふと目を覚まします。
窓の外は霧で何も見えず、遠くで霧笛が鳴っていました。
何か遠い昔のノスタルジックなイメージが湧く霧笛の音。
その体験をヒントに彼は、海の底で孤独に暮らす百万年前の恐竜が霧笛の音を仲間の呼び声と思い、灯台目指してやって来るという作品を書き上げています。

「私はここ、ここにいるよ」
遠くから呼びかけるような哀愁を帯びた霧笛の響き。
しかし、それをいま聞くことはありません。
船舶レーダーの進歩やGPSの普及によって視界不良でも安全に航海できるようになり、平成22年に全国の灯台から霧笛は廃止されています。

12/13「キノコ料理」

代表作『レ・ミゼラブル」で知られる19世紀フランス・ロマン主義の小説家
ヴィクトル・ユーゴー。
彼は小説ばかりではなく、詩や戯曲でも名作を残しています。
それどころか、文章だけではなく、知られざる画家でもありました。

彼の残したデッサンや水彩画はロマン主義的て?すか?、技法的には表現主義やシュルレアリスム、抽象絵画、アクション・ヘ?インティンク?なと?、20世紀の絵画を先取りするものて?した。
しかし、彼の絵は美術史の中ではほとんど評価されることはなく、小説家のほんの余技とみなされていたのですが、ユーゴー本人は、画家としての腕前にいっぱしの自信をもっていたようです。

そんなヴィクトル・ユーゴーがドイツを旅行したときのこと。
一度味わってみたいと思っていたドイツの有名な料理を食べるためレストランに入りました。
しかし、あいにくフランス語のできるウェイターがいません。
そこでユーゴーは紙に得意の絵をさらさらと描いてウェイターに渡し、「これを私に持ってきてほしい」と身ぶり手ぶりで訴えました。
「承知しました」とにっこり頷いたウェイターが立ち去ります。

15分後、テーブルに戻ってきたウェイターが手にしているのは、一本の雨傘。
ヴィクトル・ユーゴー先生が得意げに描いた絵は、キノコだったのです。

12/6「姉妹都市」

昭和30年12月7日、長崎市とアメリカ・ミネソタ州のセントポール市が姉妹都市として提携しました。
国同士の外交関係とは別に、文化交流や親善を目的とした地方同士の関係が姉妹都市ですが、この長崎市とセントポール市が日本で初めての姉妹都市提携なのです。

きっかけは、セントポール出身の男性ルイス・ヒル。
かつて彼の祖父はアメリカとアジアを結ぶ国際的な船舶会社の経営者で、戦前、ルイスはその船で何度もアジアを訪れていました。
とりわけ胸をときめかせたのは、海と山が織り成す長崎の美しい自然。そして、優しく親切な長崎の人々との交わり。
彼は新婚旅行先も迷わずに長崎を選んでいます。
生涯をともにする妻に、自分が何よりも愛する長崎を見てほしかったのです。

しかし戦後、美しい長崎の町が原爆によって破壊されたことを知り、大きなショックを受けます。
悲しみの中で彼は考えました。「国と国がいがみあっても、町の市民同士の友情があれば、争いのない平和な世界を守ることができるのではないか」
この考えはやがて強い信念となり、自分の故郷セントポールと長崎とが交流することを、日本国際連合協会に訴えたのです。

平和のために始まった長崎市とセントポール市の姉妹都市提携。
現在、日本と海外との姉妹都市提携は1500件を超えています。

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