幕末の文久3年、イギリスの艦隊が鹿児島湾に侵入し薩摩藩を砲撃。
薩英戦争が勃発します。
薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦(なまむぎ)事件が引き金となった戦いでしたが、
薩摩藩はこの戦いで西洋社会の軍事力を痛感し、
攘夷から開国論へ変わると、イギリスに急接近して明治維新へと大きく踏み出します。
そしてもうひとつ、この出会いから生まれたのが音楽の交流でした。
実は薩摩藩は、戦いの中でイギリス軍の軍楽隊の演奏を耳にして関心を持ち、
後に指導を求めたといわれます。
その本格的な取り組みが明治2年の軍楽伝習隊の派遣で、
横浜に駐留していたイギリス歩兵隊第10連隊第1大隊軍楽隊の軍楽長、
フェントンに30名余りの若き薩摩藩士が指導を受けるのです。
フェントンは大変熱心に指導を行い、伝習生達もそれに応えて猛練習を重ねました。
注文していた楽器がイギリスから届くのは翌年のことですが、
それからわずか40日ほどで、野外音楽堂で第1大隊の軍楽隊と一緒に演奏会を開き、
見事な演奏を披露して、集まった人々から拍手喝采を浴びています。
かつて生麦事件が起きた横浜の空に、
イギリスと薩摩の軍楽隊が奏でる音楽が共にこだましたのです。
戦いを乗り越えて新たな時代に向かう人々の熱き息吹。
それが日本の吹奏楽の始まりとなりました。