今年も、もうすぐ雛祭り。
その主役とも言える雛人形は、女性の一生を見守り続けてきた思い出の品でもあります。
そんな雛人形のひとつが、鹿児島に伝わる薩摩藩五代藩主・島津継豊(しまづ・つぐとよ)の妻:竹姫が、
輿入れの際に持参したといわれる見事な雛人形とお道具類です。
五代将軍・綱吉(つなよし)の養女であった竹姫は、嫁ぎ先が決まりながら、
婚約者が若くして亡くなるという不運に、二度に渡って見舞われました。
その後は不吉な印象と、将軍家との婚姻には莫大な経費がかかるため敬遠されて、
当時としては大変遅い25歳でようやく薩摩藩への輿入れが決まりました。
藩主夫人竹姫は、のちにわずか11歳で八代藩主となった重豪(しげひで)の養育に力を注いで支え、
徳川一族の一橋家から、重豪(しげひで)に妻を迎えて、将軍家とのつながりを深めます。
さらに、重豪(しげひで)のもとに娘が、一橋家に男子が生まれたら縁組みさせるよう遺言して亡くなるのです。
その言葉どおり、重豪(しげひで)には娘:茂姫(しげひめ)が、
一橋家には後の十一代将軍家斉(いえなり)が生まれ、二人は結ばれました。
茂姫(しげひめ)は将軍御台所(みだいどころ)となると大奥で絶大な権勢を誇り、
父親の重豪(しげひで)も外様大名でありながら将軍の舅として薩摩藩の発言力を高めます。
そして、それは十三代将軍家定(いえさだ)とあの篤姫の婚姻へとつながるのです。
藩主夫人として、雛壇の頂点に座るという栄華がもたらす責任を懸命に果たした竹姫。
その生涯を雛人形が今日に伝えています。