2008年2月アーカイブ

きょう2月24日は、1972年に日本とモンゴル人民共和国が国交を樹立した記念日です。

日本とモンゴルは、二度の元寇以来ほとんど交流はなく、国交が樹立した当時も、人々の往来は外交官と国が認めた留学生だけという極めて狭い範囲に限られていました。
その後1992年、モンゴル人民共和国がモンゴル国に変わったのをきっかけに、交流は少しずつ盛んになります。
そんな中、モンゴルの観光ツアーを担当していた旅行代理店のひとりのツアーコンダクターが、「モンゴルの雄大な大草原の中で打ち上げ花火ができたらどんなにきれいだろう」と夢を描きます。

モンゴルで花火を見られるのは都市の一部で、遊牧民の中には一度も花火を見たことがない人も多かったのです。
しかし実際は準備などの手配で実現は難しいと思われていたとき、そのツアーコンダクターは、偶然にも、同じ夢を持っていた花火師と巡り合いました。そして、ついに昨年9月、旅行ツアーのサプライズイベントとして、モンゴルの花火大会が実現。首都ウランバートルから70km離れたテレルジで、柳やスターマインなど、およそ200発の日本の花火が次々と夜空を彩りました。
ゲルと呼ばれる移動式住居の前では、ツアー客と現地の人たちが「まさか、こんなところで花火が見られるなんて」と大喜び。それは、言葉の壁を越え、同じ感動を分かち合えたひとときでもありました。

モンゴルを訪れる日本人観光客は、国交樹立当時、年間100人前後でしたが、現在では1万人に増加。今年8月には、史上初となる大相撲モンゴル巡業の開催も決定し、新たな交流に両国の期待も高まっています。

2/17 放送分 「ぎこちない思いやり」

1984年2月、「俺は山では絶対死なないぞ」と言い残してマッキンリー単独登頂に向かった冒険家・植村直己さん。
その言葉を信じて夫の帰りを待った妻・公子(きみこ)さん。
二人はその10年前に結婚しました。

二人でいっしょに暮らすようになった日、夫の大きなトランクを開けてみると、エベレストの石とか、アフリカのどこかの国の置物など、公子さんから見るとわけのわからないガラクタばかりが出てきました。
それらひとつひとつについて嬉しそうに説明する夫を見て、彼女は「ああ、この人は宝島ごっこをやってる少年なんだ。私はそんな男性と結婚したんだ」と思ったそうです。
結婚生活10年のうち、いっしょに暮らしたのは5年ほど。彼女にとって残りの5年は、宝島ごっこに出かけた夫が帰ってくるのを待ち続ける、切ない生活でした。

ところが、家にいるときの夫は、冒険の疲れを取っているのか、徹底的にごろごろしていました。
公子さんが2階で書道の仕事をしていると、彼は1階でじっとテレビを見ていますが、それでもときどきのっそり2階に上がってきて、「公ちゃん、どう、元気?」と声をかけます。
そして「じゃあ」と下に降りていきますが、またしばらくすると所在なげに上がってきて、「どう、元気?」
おかしな夫婦関係に見えますが、そこには切ない思いをさせている妻に対する夫の、ぎこちなくも深い思いやりを感じます。
そんな結婚生活の10年目。植村直己さんはマッキンリーで消息を断ちました。
「冒険は生きて帰ることにあると言ってたのに、だらしないじゃないの」
これは公子さんが記者会見で帰らぬ夫に向かって語った言葉です。

きょう2月10日は、語呂合わせで「ふとんの日」です。
「自分たちが育てた綿(わた)で、学校の保健室のふとんを作ろう」
これを実現したのは、奈良県の小学生たちです。

1999年に始まったのは、その名も「ふとんプロジェクト」。当時、小学1年生だった彼らは、先生と一緒に土づくりから始め、肥料をあげたり、植え替えをしたり…。
やがて綿の木は子供たちの背丈よりも大きくなって、白やピンクの美しい花を咲かせます。

綿の成長記録だけではありません。
ふとんが一般に普及したのは江戸時代だったこと、綿の歴史やふとんの作り方など、社会見学に行ったり、全国のふとんメーカーに問い合わせたりしながら、子供たちは疑問を一つひとつ解決していきます。
しかし、初めての年に収穫できた綿はわずか66グラム。その後もふとんプロジェクトは毎年行われますが、花が咲いて実がなってもうまく弾けずに、中の綿がとれなかったり、台風に見舞われたり、ふとんに必要な綿が採れるまでに5年の歳月を費やします。

そして2003年。綿はようやく6.8キログラムに到達し、ふとんメーカーで世界にひとつだけのふとんに仕上げてもらいました。
最後の作業は、ふとんカバーの制作。保健室のふとんということで、「気分が悪い時、どんな言葉をかけてもらったらうれしいか」を全員で考え、「早く元気になって遊ぼうね」「元気100%」といった思い思いのメッセージをアイロンプリントでのせて完成しました。
5年がかりのふとんプロジェクト。子供たちはふかふかした思い出を胸に小学校を卒業していきました。

2/3 放送分 「受験コロッケ」

受験シーズン真っ盛り。きょうは、岐阜県御嵩町(みたけちょう)のユニークなコロッケ屋さんをご紹介します。

手作りコロッケで人気の「ユタカ店」を営むのは、今年80歳になる森島豊さん。店頭には「高校生諸君、80点以上の答案一枚でコロッケ2個贈呈」と生徒たちを励ます紙が張られています。
これは、コロッケを買いにきた高校の先生が「最近、生徒が勉強しなくて…」と嘆いていたのをきっかけに、6年ほど前に思いついたサービスです。

コロッケは1個40円。機械を使わず、その日売り切れる分だけをひとつひとつ手作りします。
黒こしょうのきいたコロッケをお目当てに、高校生たちが店先で答案用紙を広げてみせる光景は、すっかりお馴染み。これまでの最高記録は、7科目の試験で14個のコロッケを獲得した地元の女子高生です。
そんな生徒には、「目標は東大か?京大か?」と励ますのも忘れません。
春には「合格したよ」と報告にくるのが何よりもうれしい、と語る森島さん。
地元で40年になる老舗ですから、中には、昔おつかいで買いにきていた人たちもいます。
高校生になった彼らがズボンをずり下げていたり、まゆげを細くしたりしていると「そんなんじゃコロッケはやれん!」と注意します。

温かい中にも厳しさがあり、地元の学校や警察からも一目置かれる存在です。
森島さんは2年前、大病を患って手術をしました。
入院中はしばらく休業していましたが、退院すると「元気なうちは続けたい」とお店を再開。この春、高校生たちの合格報告を楽しみに、きょうもコロッケを揚げていることでしょう。

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