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MORNING JAM

問題です!

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2022-02-18(金)

オリンピックなぞなぞ~

鏡の前で、ゴロンと寝っころがって

オリンピック中継を観ていたこうじくんが、

ボソッとつぶやきました。

「井村(いむら)から」

こうじくんが見たものって、なーんだ?

答え:ノーマルヒル

カタカナで縦に「ノーマルヒル」と書き、右に90°傾けて鏡に映すとあら不思議。
「イムラカラ」に見える…?!

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2022-02-17(木)

冬のオリンピックで初めてメダルを獲得した日本人は、

アルペンスキーの猪谷千春(いがやちはる)選手(※男性)。

1956年、イタリアのコルチナ・ダンペッツォオリンピックで、

銀メダルを獲得しました。

猪谷さんは2歳でスキーを始め、平衡感覚を鍛えるために、

丸太の一本橋を渡るトレーニング。

その猪谷さんが左右の力のバランスを保つために、

普段の生活でしていたことは何でしょう?

答え:箸を両手交互に使う

日本人として初めての冬のオリンピックメダリストで、日本人で唯一の、アルペンスキーでのメダリスト、猪谷千春(いがやちはる)さん。父親は、日本のスキーの草分けで、樺太をスキーで走破した猪谷六合雄(くにお)(1890-1986)。母、定子は日本初の女性ジャンパー。雪がある場所を求め、移り住んだ千島列島(国後島)で春に生まれたことから「千春」と名付けられた。(その後、一家は長野に移住)

2歳でスキーを始め、朝から夕方まで毎日練習。
・丸木の一本橋を渡り、平衡感覚を鍛え
・原木にまたがって、山の斜面を滑り降りる
・木を切り倒したり、24キロの山道を、薪を背負って登る
・体のバランスを保つために、箸は両手交互に
など、徹底的にトレーニング。(本人はいい思い出は一つもないと言っている)

11歳で、当時の日本一の選手より6秒早いタイムを出した。そして、1952年、20歳で初のオリンピック(オスロ大会)に出場。1956年のコルチナ・ダンペッツォ大会で、「回転」で銀メダルを獲得した。1960年のスコーバレーオリンピックを最後に引退。アメリカの保険会社AIU(現在のAIG)に入社した。1982年、IOC委員に就任。副会長まで務めた。現在90歳。

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2022-02-16(水)

クイズ!ふしぎ歴史エピソード

古代オリンピックは、紀元前776年から西暦393年まで、

およそ1200年の間に、293回行われました。

一方、近代オリンピックは、夏と冬合わせて50数回。

古代オリンピックでは、1度もなかったのに、

近代オリンピックになって、5回起こったこと。

何でしょう?

答え:戦争による中止

古代オリンピックは、ギリシアのオリンピアンで4年に1度行われた競技会。当時のオリンピックは、「戦争中であっても、それを中断して、参加しなければならない」という義務があった。なので、1200年間、一度も中止されたことはない。
一方で、近代オリンピックが誕生してまだ120年ちょっと。

夏のオリンピックはこれまでに3大会
・1916年ベルリン(第6回大会) 
・1940年東京(第12回) ※東京が返上後、ヘルシンキに決まったが、ヘルシンキも中止になった。 
・1944年ロンドン(第13回)

冬のオリンピックはこれまでに2大会
・1940年札幌
・1944年コルチナ・ダンペッツォ(イタリア)
が中止になった。

・ちなみに、2026年に行われる次の冬季五輪の開催地は、コルチナ・ダンペッツォ

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2022-02-15(火)

「さっちゃんも入らない?

 私たちは、もう次に進んでいるよ」

 と誘われ、

「さっちゃんの、やりたいように

 やればいいんだよ」
 
 と励まされた、さっちゃん。

誰でしょう?

答え:藤澤五月(さつき)
  (カーリング女子、ロコソラーレ)

カーリング女子日本代表「ロコ・ソラーレ」のスキップを務め、12日土曜日のデンマーク戦でスーパーショットを決めた藤澤五月選手。

北海道北見市出身で、高校卒業後は、長野の中部電力のカーリングチームに入った藤澤選手。日本選手権4連覇を果たしたが、ソチオリンピックの代表決定戦で北海道銀行に敗れ、出場を逃す。当時の藤澤選手は、「私についてこい」タイプの、「絶対的なスキップ」を目指していた。
しかし、オリンピックを逃し、失意のまま、チームを辞め、北海道に帰る。そこへ声をかけたのが、「ロコ・ソラーレ」を立ち上げた本橋麻里。

「さっちゃんも入らない?私たちは、もう次に進んでいるよ」
藤澤選手は加入を決めるが、なかなか勝てない。そこでまた、本橋が声をかける。
「さっちゃんの、やりたいようにやればいいんだよ」

頼れる仲間がいることに気づき、プレッシャーから解放。引っ張らなくてもいい、弱みを見せてもいい。チームは快進撃を続け、平昌で銅メダルを獲得。銅メダル獲得。今回も(ほぼ)同じメンバーで臨む。

「いつも笑っているチームなんて世界のどこにもない。でもそんなチームがあってもいい」

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2022-02-14(月)

スノーボード男子ハーフパイプで悲願の金メダルに輝いた、平野歩夢選手。

2018年にスケートボードで東京オリンピック挑戦を

表明し、見事代表の座を獲得。

コロナ禍で開催が2021年になり、北京オリンピックまで

およそ半年しか調整ができない中での金メダル獲得。

とんでもない偉業をやってのけた平野選手が、

東京オリンピック直後にSNSに投稿した文章の一部。

「最近こんな事を思う。

人は色んな負荷がかかればかかるほど、〇〇〇○○○。」

さて、何と言ったでしょう?

答え:身軽になるんじゃないかって。

2月11日(金)に行われた北京オリンピック、スノーボード・ハーフパイプ男子決勝で、見事金メダルを獲得した平野歩夢選手。
2014年ソチ五輪、続く2018年平昌五輪で銀メダルを獲得していた平野選手にとって、悲願の金メダルとなった。
決勝では、大技を決めたはずの2回目で納得できる点数が出なかったことへの不満を力に変え、3回目で逆転勝利を収めた。この、怒りやマイナスの感情・プレッシャーをエネルギーに変える力は、過去のインタビューからも随所に見られる。
スケートボードへの挑戦に対しては、
「リスクとかプレッシャーは今まで以上にすごく大きくて、何かに挑戦するってことはそれだけの注目も受け止めないといけない。そういう点でも人が経験できないところを、いま、前を向いて走っていると思う。その経験によって今まで以上に強くなることができればと思って挑戦した」
そして東京五輪を終え、スノーボードの練習を再開する際は、
「(スノーボーダーとして)戦う場を離れて(スケートボーダーとして)チャレンジャーになって、そこでの戦いを通じて雪山に戻ったときに、小さい頃の自分を思い出せるというか。本当に初心になれたんです。残された時間は短いけど、今スノーボードをやっている人たちを追い越すだけというか、追う立場になれたときのほうが気持ちもラクで。これまでは抜かれないようにすることしか考えられなかったけど、スケートボードに挑戦したことによって、最初にオリンピックを目指し始めた頃の自分を思い出せました」
そんな平野選手が、東京五輪直後にSNS(インスタグラム)に投稿した文章の一部。
「最近こんな事を思う。人は色んな負荷がかかればかかるほど、身軽になるんじゃないかって。あの時の自分より、今の自分のほうがって。そのほうがどこまでも自由に立ち向かって行ける気がする。」

・ちなみに、過去のインタビューにて「自分の人生にタイトルをつけるとしたら?」という質問に対して、「命。ずっと命に関わる競技で、自分もそれを恐れているから。」と答えている。
ショー的な要素も大きく、華やかに見える競技だが、とてつもない恐怖や苦しみと向き合っているのもまた事実である。

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2022-02-11(金)

オリンピックなぞなぞ〜

オリンピックを前に、あせるばかりの

日本代表こうじくん。

いつもの課題「タスク」をきちんとこなすことで

見事、技を決めることができました。

こうじくんが決めた「技」って、なーんだ?

答え:アクセル    .

「あせる」こうじくんが、「タスク(足す「ク」)をこなしたので、アクセル」が飛べるようになりました。
つまり、こうじくんはフィギュアスケート選手!

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2022-02-10(木)

オリンピックのうっかりトラブル

日本人最初の金メダルは、

1928年の第9回アムステルダムオリンピック。

三段跳びの織田幹雄(みきお)選手が、15m21cmの

記録で金メダルを獲得。

しかし、この時、とんでもないトラブルが発生。

どんなトラブルだったでしょう?

答え:国旗を用意していなかった
   (借りてきた特大の国旗を掲げた)

織田幹雄さんは、日本人初(アジア人としても初)のオリンピック金メダリスト。「ホップステップジャンプ」を「三段跳び」と訳した人物でもある。
1924年のパリオリンピックに出場し、三段跳で6位入賞、走幅跳と走高跳で10位。そして、1928年のアムステルダムオリンピックで、三段跳で見事金メダル獲得。
しかし、大会運営側は、まさか日本人が優勝すると思っておらず、国旗を用意していなかった。そこで選手団から国旗を借りて、掲揚。他の国の4倍はある超特大の国旗が掲げられた。しかも、国旗(君が代)も途中から流れるというドタバタ劇となった。

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2022-02-09(水)

クイズ!ふしぎ歴史エピソード(ウインタースポーツ編)

女性がスポーツをすること自体が珍しかった20世紀の初め。

フィギュアスケートも男性だけのスポーツでした。

しかし、「女性を禁止する」ルールがないことに気づいたのが

イギリス人女性のマッジ・サイアーズ。

彼女は男子ばかりのフィギュアの大会に参加して、2位に輝きました。

この時、優勝した選手が

「明らかに彼女の演技の方が優れていた」と

自分がもらった金メダルをサイアーズにプレゼント。

今もスケート界に名が残るこの選手の名前は、何でしょう?

答え:サルコウ

ウルリッヒ・サルコウは、スウェーデン出身のフィギュアスケート選手。1909年に、振り上げた右足の勢いを利用して、左足の内側で跳ぶジャンプを発明。このジャンプに「サルコウ」の名前がついた。(ちなみにジャンプは他に、ルッツとアクセルが人名由来)
マッジ・サイアーズは、競泳、馬術、スケートとスポーツ万能なイギリス人女性。ただし当時は女性がスポーツなど考えられない時代。フィギュアスケートも男子だけの競技だったが、ルールの抜け穴をついて、1902年、世界選手権に出場。2位に輝いた上に、1位のサルコウから、金メダルをプレゼントされた。この出来事を受けて、翌年から女子の出場を禁止するルールが書き加えられた。そして1906年に(やっと)女子シングル部門が創設。スポーツの歴史が変わった瞬間だった。
以来、マッジ・サイアーズは「史上初の女性アスリート」と称されている。1908年のロンドンオリンピックで初めてフィギュアスケートが行われ(屋内スケート場)、マッジ・サイアーズは女子シングルで金メダル。そして、ペアに夫のエドガー・サイアーズと出場し、銅メダルを獲得した。

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2022-02-08(火)

北京オリンピック、日本人で最初のメダリストとなった

フリースタイルスキー男子モーグルの堀島行真選手。

堀島選手は、競技をとことん突き詰める姿勢を

2人の日本人金メダリストから学んだそうです。

1人は夏のオリンピックの金メダリストで、

もう1人は冬のオリンピックの金メダリスト。

ずばり、誰と誰でしょう?

答え:内村航平と羽生結弦

モーグルを上手くなりたい、モーグルを極めたいと取り組む中で、堀島選手が特に大きな影響を受けたのが、体操の内村航平選手と、フィギュアスケートの羽生結弦選手。
「同じ選手という立場から見て、2人は大会に対するアプローチや準備を本当に細かいところまで突き詰めている。妥協せず、突き詰めて行くから大会でしっかり結果に繋がるんだろうな、と思う。」
そこで堀島選手は、実際にトレーニングとして体操やフィギュアを取り入れ、2人の感覚に近づけるアプローチをしているという。
「モーグルなのに体操やフィギュアの動きも入っている。そんな選手になれたら面白い。」

内村航平…金メダル3つ(2012ロンドン(個人総合)、2016リオ(個人総合・団体総合))。その他、銀メダルも4つ(北京・ロンドン)獲得。
羽生結弦…金メダル2つ(2014ソチ・2018平昌(いずれも男子シングル))。

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2022-02-07(月)

計算問題です。

「1」が100ケタ並んだ数字。

「9」で割ると、「余り」はいくつでしょう?

答え:1

1が連続する数を「9」で割ると…
1ケタ:1÷9=0余り1
2ケタ:11÷9=1余り2
3ケタ:111÷9=12余り3
4ケタ:1111÷9=123余り4
5ケタ:11111÷9=1234余り5
6ケタ:111111÷9=12345余り6
7ケタ:1111111÷9=123456余り7
8ケタ:11111111÷9=1234567余り8
9ケタ:111111111÷9=12345678余り9→12345679で余りは0
10ケタ:1111111111÷9=123456790余り1

…と、1ケタ増えるごとに「余り」は1ずつ増え、9(の倍数)ケタ目で「余り」が「0」になる。
つまり、「余り」は「9ケタ周期」で繰り返す。
なので、100ケタ=(9×11)+1ケタ
ということは、1が100ケタ続く数を9で割ると、余りは1。

答えはこちら