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MORNING JAM

問題です!

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2022-08-23(火)

理科の問題です。

レントゲン写真などで使われる、

光の一種「X線」。

実は、家にある文房具を使って、

X線を作ることができます。

といっても、X線が発生するのは、

真空中で、それを使った場合。

何を使うでしょう?

答え:セロハンテープ

2008年に、アメリカの研究チームが、Nature誌で発表。
真空中で、セロハンテープ毎秒3センチのスピードで剥がすと、X線が発生する。しかも、レントゲン写真を撮影できるほどの強さのX線が発生するという。
真空中で、一定量の摩擦を起こすことで、X線周波の電磁波が発生するというメカニズム。通常、X線を扱うには放射線技師などの資格が必要だが、「真空状態」さえ作れば、手軽に、X線を発生させることができる。

(船外活動や月面では、セロハンテープの取り扱いに注意!)

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2022-08-22(月)

もともとは、モンゴル語の雄叫びで「うぉぉぉー!」

それが、ロシアやドイツに伝わり、「万歳!」という意味に。

日本では、早稲田大学野球部が

最初に使い始めました。

これ、何という言葉でしょう?

答え:フレー

13〜14世紀、モンゴルがロシアを支配していた時代に、モンゴル語のhuraa(フラー:戦いの際の雄叫び)が、ロシアに入ってロシア語のura(ウラー)になっていった。14〜15世紀には、ドイツ騎士団がロシアを支配していた際に、ドイツにロシア語のuraが入る。そして17世紀にはそれが英語圏にも伝わり、hurray(フレー)になった。
英語圏では嬉しい時に叫ぶ言葉で「万歳」の意味で使われていたが、それが日本に入ってきたのは明治時代。持ち込んだのは、早稲田大学野球部の初代部長を務めた、安部磯雄という人物。
当時、まだ弱小だった早稲田大学を強くするため、安部磯雄はもし強豪3校に勝つ事があれば、その際にはアメリカに連れていくという約束を宣言。これに奮起したメンバーは1904年に強豪3校を相手に全勝というパフォーマンス。そして1905年(明治38年)には約束通りに野球部はアメリカへ行く事に。「フレーフレー」は、この遠征で目にしたカレッジエールが起源。
それまで日本の応援は自由でバラバラなのが普通。ところがカレッジエールでは学生たちが大学名の書かれた小旗を持って、リーダーの音頭に合わせてエールを送るというもの。
帰国後に安部磯雄が大学の寄宿舎生らに紹介し、その年の秋の早慶戦第三回戦で早稲田大学によってはじめて行われた。これを翌年(1906年)に慶應義塾が模倣し、以降、次第に広まっていった。

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2022-08-19(金)

始球式なぞなぞ~

始球式のマウンドに、

ピッカピカの新しい車に乗って現れたこうじくん。

投げる「球種」は、なーんだ?

答え:シンカー

新しい車で現れたので、「新・CAR」・・・

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2022-08-18(木)

レゴブロック、持ってますか?

レゴのカラフルなブロックの中に、

「緑色」のブロックはほとんど入っていません。

何故、緑色だけ少ないんでしょう?

答え:戦争の道具を作ってほしくないから

レゴの哲学のひとつに、「戦争を子どものおもちゃにしない」というものがある。レゴのブロックに緑があまり入っていないのは、この哲学によるもの。
緑は、大地の色、自然の色。
であると同時に、自然にまぎれることができることから、「武器」によく使われる色でもある。緑が多くなると、子どもたちが戦車や戦闘機を作ってしまう、という理由から、意図的に緑のブロックを少なくしている。
▶一方、土台として使う板(基礎板)は大地なので、緑色になっている。

※諸説あることが判明いたしましたので、全員正解とさせていただきました。

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2022-08-17(水)

クイズ!ふしぎ歴史エピソード

17世紀末の1697年、オランダの造船所に

大柄なロシア人が働きにやってきました。

名前は、ミハイロフ。

すぐに優秀な働き手となったミハイロフ。

ただ、2mを超える大男で、とにかく目立つので、

隠していた彼の正体がバレてしまいました。

ミハイロフは一体、何者だったんでしょう?

答え:ロシア皇帝

ロシア・ロマノフ朝の皇帝、ピョートル1世。
「我が国は遅れている」と常々思っていたピョートル帝は、250人を超える使節団のヨーロッパ派遣を決定。準備しているうちに、どうしても自分が行きたくなり、「ピョートル・ミハイロフ」という偽名で使節の一員となった。彼はこっそり造船所で働くが、大男ゆえ、すぐにバレる。しかし本人は一向に気にせず、トンテンカン働きつづけて技術を修得。さらに、歯科医に勤務して、抜歯の技術も修得。(これについては、後に、虫歯の家臣を見つけて抜きたがるので、イヤがられていた)
帰国後は積極的に西欧化を進め、国は大きく発展した。今の美しいサンクトペテルブルクを作ったのもピョートル1世で、功績の大きさから、皇帝を超える「大帝」と呼ばれている。

▶外国人や身分の低い人、貧しい人も分けへだてなく登用。「玉座の革命家」と呼ばれることもある。
▶52歳の時、船舶事故現場で自ら川に飛び込み、人命救助にあたった。しかし、これが原因で、感染症にかかり、亡くなった。
▶プーチン大統領はピョートル大帝を尊敬し、自分の偉大さをピョートル大帝になぞらえているが・・・果たして。

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2022-08-16(火)

北半球に広く生息し、日本では

福岡や佐賀でよく見かける鳥、カササギ。

カササギは、木の枝やワラなど、

いろんなものを集めて巣をつくる

という習性を持っています。

イギリスでそんなカササギの習性から名前がつけられた料理。

何でしょう?

答え:パイ

カササギは、英語で「マグパイ」。いろんな材料で巣をつくる習性を持つ。そこで、色んな材料を中に詰めて焼き上げる料理を、マグパイになぞらえて「パイ」と名づけた。実際、イギリスには、「ミートパイ」や「チキンパイ」など、いろんなパイ料理がある。

(ちなみに、フランス語でパイは「パートフィユテ」=葉のように薄い生地と言い、カササギとは無関係。)

カササギは北半球に広く分布する、カラスの仲間。哺乳類以外で初めて、ミラーテストをクリアした生き物。
(ミラーテスト・・・鏡に映った像が自分であることを認識)
福岡、佐賀に多く生息する。別名「カチガラス」

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2022-08-15(月)

心臓は3つ、

脳みそは9つ、

体の9割が筋肉でできている生き物。

何でしょう?

答え:タコ

タコはその見た目や動きが目立つが、その内部も人とはかなり異なる。
タコには心臓が3つもある。1つはメインとなる「心臓」で、人間と同じように全身に血液や酸素を送る役割がある。残りの2つは「鰓(えら)心臓」と呼ばれるもので、左右の鰓に1つずつ配置されている。タコの体は9割が筋肉であり、ぐにゃぐにゃ柔らかい上に猛スピードで泳ぐことができる。そんな動きの速いタコの体は多くの酸素を必要とするため、心臓が3つあると考えられている。
さらに、タコには脳が9つもある。その場所は目の奥に1つあり、その他に8本の足の付け根に各1つずつある。タコの足には吸盤があり、その数は全部で約1600個にも上る。
タコの吸盤には触覚や味覚などの役割があり、人間でいうと指や舌に相当する部分である。タコはその吸盤から様々な情報を得ていて、その情報を足の付け根にある8つの脳が扱い、頭部にある脳に伝えている。

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2022-08-12(金)

福岡なぞなぞ~

食べすぎると、

履き物になってしまう

福岡県内の地名って、

どーこだ?


(原案:T&Yなぞなぞサイト)

答え:福津

食べすぎて太る(「ふ」取る)と、「福津」が「くつ」になる…

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2022-08-11(木)

通算勝利数94勝、

通算ホームラン714本を記録したベーブルース。

ベーブルースは、バッティングのコツを

聞かれた時、

どうすればいい、と答えたでしょう?

答え:守備の甘い所に打つのがコツだ(だから俺は場外に打つ)

ベーブルースが初めて、ホームラン王に輝いた時のシーズン記録はたった11本。
当時はまだボールが飛ばず、そもそもホームランが重視されていなかった。そんな時代から、ホームランにこだわっていたのがベーブルース。野手に転向後、1920年代以降は「飛ぶボール」に変わり、シーズン60本を記録している。

▶ちなみに、ベーブルースは、野球を始めた当初はキャッチャーだった。左利き用のミットなどなく、右利き用ミットでキャッチしたあと、ミットを外して送球しても、ランナーを刺せるほど強肩だったという。
▶1934年に全米選抜で来日。11月16日の小倉到津球場の試合は雨だったが、試合は決行。ベーブルースは番傘を差して守備についた。(日本の番傘が気に入った)この試合、ホームランを放っている。
▶プロ入りして初めて買ったものは赤い自転車。子どもの頃からずっと欲しかったもの。他のチームメートが自動車を買う中、1人、NYで自転車を乗り回していた。

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2022-08-10(水)

クイズ!ふしぎ歴史エピソード

太平洋戦争の終戦から17年後の1962年、

アメリカ政府から招かれた日本人がいます。

大分、豊後高田市出身の、藤田信雄さん。

彼は、世界で唯一、アメリカに対して

あることをした人物。

太平洋戦争で、藤田さんは、何をしたんでしょう?

答え:アメリカ本土に戦闘機で爆撃した。

▶開戦のきっかけとなった、ハワイ真珠湾攻撃以外に、アメリカへの攻撃を行ったことが語られることは少ないが、日本軍は何度か、アメリカ本土を攻撃している。(海岸近くからの砲撃や、風船爆弾が知られている)
その中で戦闘機でアメリカ西海岸に出撃し、爆撃を行ったのが、豊後高田市出身の藤田信雄さん。彼は1942年9月9日と29日の2回出撃した。
・1度目(9/9)は山でボヤが発生したが、木が一本燃えただけだった。
・2度目(9/29)はアメリカ側に認知されず、被害は不明。
アメリカ本土を空襲したのは、今もこれが唯一の例。

▶戦後、1962年、当時の官房長官・大平正芳から藤田さんに電話がかかって来た。
「アメリカ政府があなたを呼んでいる。ただし、万一報復を受けても、日本政府はあなたを守れない」
藤田さんは覚悟を決め(自決も覚悟して)、日本刀を持って渡米。しかし、アメリカ本土で藤田さんを迎えたのは大歓声だった。
「戦争は美化できない。しかし、あなたの勇気ある行動はあっぱれだ。日米の友好を図りたい」
藤田さんは、日本刀を平和を誓うしるしとして寄贈した。彼が亡くなった今も、子孫が親善活動を続けている。

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