「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた江戸時代の最大の火災、明暦の大火は四代将軍徳川家綱16歳の時に起きたもので、江戸の街の大半が焼き尽くされて、死者は一説には10万人とも言われ、江戸城天守閣まで焼失する甚大な被害となりました。
幕府は直ちに天守閣の再建を進めますが、反対の声を上げたのが会津藩主の保科正之でした。
二代将軍秀忠の四男でありながら保科家に養子に出されるなど苦労の多かった正之は、兄の三代将軍家光の深い信頼を得て会津藩主となり、家綱の後見を託されたのです。
正之は「天守閣は戦国の世のもので時代遅れ。今は城下の復興を優先させるべき」と提言。
これによって再建は後回しにされて、被災した人々の救済や江戸城下の火災対策の整備が精力的に行われました。
当然、莫大な経費がかかりましたが、危惧する幕閣に正之は「幕府の蓄財は、このようなときに使ってこそ。今使わなければ無いのも同然」と一喝したと言われます。
実は天守閣は、家康が築造したものを秀忠が破却して再建、秀忠の天守閣を家光が破却して再建と三度に渡って築かれ、その度に諸大名の重い負担となっていました。
その愚かさにも歯止めをかけた正之。
その後、歴代の将軍が天守閣を再建することはありませんでした。