2008年10月アーカイブ

10/26「一人一人の身体に合わせた作業台」

大分県日出町に、放送局やレコーディングスタジオなどで使われるマイクを設計・製造する会社があります。
ここでは181人の社員のうち122人は身体に障害をもつ人達です。
その一人一人がハンディをものともせずに高度な作業をするシステムが、注目を集めています。

30年前の設立当初は流れ作業の工場でしたが、健常者と身障者の作業効率の違いや、単純作業を繰り返す心理的なストレスで、能率が上がりませんでした。
そこで社内で何度も話し合いを積み重ね、一つの製品の全作業を一人で責任をもってやり遂げる方式に切り替えることにしました。
それを可能にしたのが、一人一人の身体機能に合わせて最適なレイアウトを施した作業台です。

たとえば、左手が不自由な人のために、右手が使いやすい位置に道具や機械を集中させた作業台。
また、横に動く動作が難しい車椅子の人には、一つの作業が終わるとボタンひとつでテーブルの上の作業道具が横に移動し、次の作業に必要なものが自分の目の前に来る仕組みの作業台を、自社で作り上げたのです。
それも一人一人の身体に合わせるので、どれ一つとして同じものはありません。

「誰でも使いやすい設備ではなく、その人だからこそ使いやすい設備。
それが私たちの考え」と語るのは、自身も車椅子に乗る社長です。
「私たちの立場のような人には、働く場所を選ぶという自由がまだまだ与えられていないのが現実。
私も、生まれ育った故郷や友人から遠く離れ、大分まで来なければならなかった。こういう想いを他人にはさせたくありません」

この工場のように、障害者が障害をリスクと思わないで働ける会社が全国に広がることを願います・・・。

1985年、山口県宇部市のときわ公園で、日本初の人工孵化によるモモイロペリカンが誕生しました。
両親はインドのカルカッタからときわ公園にやってきたペリカンで、故郷のカルカッタにちなんで「カッタくん」と名付けられました。
カッタくんは人懐こい性格で、ときわ公園でもたちまち人気者になっていき、成長すると、公園を飛び出して近くの団地や海岸などにも飛んでいくようになりました。

公園の近くにある幼稚園には毎日通園。
園児たちと一緒に音楽に合わせて踊ったり、鏡に映った自分に恋をして求愛のポーズをとったり、その愛くるしい姿がニュースで放映されると、全国でも有名になりました。
また幼稚園が建て替え工事をしたときは、空からの目印を見失ってしまいましたが、道を歩いていた先生と園児たちを見つけて舞い降り、仲良く歩いて通園したこともあります。
カッタくんがこれほどまでに有名になったのは、「ときわ公園の動物の中でも一番やさしい性格。
人間を完全に信じきっていて、子供が触っても、背中に乗っても、まったく気にしなかったから」と飼育係の方はおっしゃいます。

しかし今年7月16日、カッタくんは23歳の長寿を全うして死んでしまったという一報に、全国は悲しみに包まれました。
先月には、園内の動物慰霊祭にあわせて、カッタくんの追悼式も行われました。
天国に飛び立った今でも人々に愛され続けるモモイロペリカンのカッタくん。
現在、ときわ公園には、カッタくんの息子・キララくんが父親ゆずりの人懐こい性格で早くも人気を集めています。

キララくんが子供たちと仲良くふれあっている姿を、今は亡きカッタくんが、高い、高い空からやさしく見守っているにちがいありません・・・。

10/12「出水のツルクラブ」

今年もまた鹿児島県出水市に、ツルがやって来ます。
シベリアからおよそ2000キロの距離を命がけで飛んでくるツルたちの第一陣が出水にやって来るのは、毎年10月中旬ごろ。
12月のピーク時には1万2000羽にもなり、翌年の2月・3月には再び北の繁殖地へと帰っていきます。

1960年、地元の出水市立荘(しょう)中学校に「ツルクラブ」が結成され、以来48年間にわたり、生徒たちが出水のツルの調査を続けています。
当初、ツルクラブは学校のクラブ活動のひとつでした。
しかし少子化で生徒数が減っていき、現在では全校生徒が参加しています。

まだ薄暗い午前5時20分に集合。
上級生が下級生の指導をしながら、いくつかの計測地点に分かれて調査を行います。
スコープをのぞく生徒たちの顔は真剣そのもの。
ツルたちは「ねぐら」を飛び立ったり、舞い戻ったり、「ねぐら」から動かないものとそれぞれに好きな動きをしますが、生徒たちは寒さでかじかむ手で計数器を握りしめ、一羽も間違えずに根気よくカウントします。
また、ツルの家族構成や分布状況も調べ、その調査結果は公式記録として公表され、貴重なデータとしてツルの保護活動に活用されています。

この調査には、中学の全職員とPTA全員が交代で参加。
通行する車がツルを驚かせないように注意を呼びかけたりして、生徒たちの活動を応援します。
中には3世代にわたって調査に参加している家庭もあり、地域の人々のあたたかい協力によって伝統あるツルクラブの活動が支えられているのです。

年に1回発行される活動報告書には、生徒のコメントが寄せられています。
「僕が大人になったとき、今よりもっとたくさんのツルが出水に来てくれたらと思います」
この生徒の素朴な願いは、ツルと共に生きる地域住民皆の思いでもあるのです。

10/5「レモンの日」

美しい夫婦愛を描いた詩集「智恵子抄」。
著者である詩人・高村光太郎は、22歳のときにロダンの彫刻「考える人」を見て感銘を受け、ニューヨークやパリ、ロンドンに渡り、3年もの間、見聞を広めました。
しかし、帰国と同時に、当時の日本の芸術に対する古い価値観に落胆し、彫刻家の父親ともことごとく衝突。
そんなとき、女流洋画家だった智恵子と出会ったことで、彼の人生は一変します。

「私はこの世で智恵子にめぐり会ったため、彼女の純愛によって心が清められ、以前の退廃生活から救い出された」と語り、二人は間もなく結婚。
けっして裕福とはいえない暮らしでしたが、智恵子は一切愚痴をこぼさず、光太郎が生み出す作品をいつも心待ちにしていました。

ところが、やがて智恵子は精神の病を患い、その症状はどんどん悪化。
それでも光太郎は変わりゆく智恵子を大きな愛でいたわり、7年もの間、看病を続けました。
そして1938年10月5日のこと。
光太郎は、智恵子が大好物のレモンを苦労して買い求め、それを食べさせると、彼女は一瞬だけ正常な意識に戻った後、静かに息を引き取りました。

その後、光太郎は自分の作品を、愛情をもって見守ってくれる智恵子の存在が一番の心の支えだったことを実感。
一度は創作意欲を失った光太郎でしたが、「一人の人に分かってもらえれば、万人に通じる」という信念を奮い立たせ、亡き妻・智恵子に問いかけるように筆を進めながら書き上げたのが、「智恵子抄」だったのです。

智恵子抄に収められた「レモン哀歌」という詩の中で、光太郎が智恵子の遺影の前にそっと彼女の大好きなレモンを置いたことから、彼女の命日にあたる今日、10月5日は「レモンの日」に制定されています。

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