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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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4/8「青い目の落語家」

幕末から明治にかけては、西洋の技術や文化を教える、いわゆる「お雇い外国人」が多く来日しましたが、その中で落語家になった人がいます。

イギリス人のヘンリー・ジェームス・ブラック。慶応元年に来日し、しばらくは英語教師をしていました。
ところが、日本人に英語を教えるよりも日本語そのものに興味をもったブラックは、そこから日本の話芸である落語にどんどん惹かれていき、ついに33歳にして落語家に弟子入りしてしまったのです。

持ち前の才能と努力が実を結び、やがて当時の一流の落語家たちの推薦で真打ちとなったブラック。羽織袴で高座に上がり、江戸っ子も舌を巻くべらんめえ口調を操る青い目の落語家は、日本の庶民たちに大喜びで迎えられました。

ところが、彼の回りのお雇い外国人たちは日本人を見下したところがあって、お雇いの立場をかなぐり捨てて日本の芸人になったブラックに冷たい視線を向けていました。
そういう差別的な態度に対して、ブラックは「肌が白かろうが黄色だろうが、だれだって同じ赤い血が流れているんだ!」と反発していました。
さらに彼は、シェークスピアやディケンズといったイギリスの古典文学を翻訳し、それを新作落語として寄席で披露。「義理や人情ってやつぁ、どこの国でもいっしょです」と語っては拍手喝采を浴びていました。

また、落語家仲間を集めて日本で初めてレコードの吹き込みを行ったのもブラック。彼のおかげで明治の貴重な名人芸が残されているのです。
明治の日本の庶民に愛された青い目の落語家ブラック。彼はいま、当時のお雇い外国人たちとともに横浜の外国人墓地に眠っています。