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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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8/28「漱石、文豪への道の途中」

文豪、夏目漱石には作家の前に教師の時代がありました。
帝国大学を卒業した漱石は英語教師となり、29歳のときに熊本市の第五高等学校に赴任。
2年前に退任した小泉八雲の後任でした。

漱石は英語教育に精力的に取り組み、有能な学生の学費を援助。
またボート部の部長としても活躍し、あるとき、海軍省からボートを譲り受けることになった際、
佐世保まで受け取りに行った学生達が、なんと飲食代に散財して100円もの借金を作ってしまうのです。
それは漱石のひと月分の給料でしたが、何も言わず漱石は一人で弁済したといわれ、
その懐の深さで五高生に慕われました。

その後、漱石は文部省の要請でイギリスに留学。
帰国すると東京帝国大学に講師として招かれます。
またも小泉八雲の後任でした。
ところがこのとき、八雲を慕う学生達が留任運動を展開。
漱石の講義は不評で、自信を失った漱石は辞職願を提出したほどでした。

教師として味わった挫折。
この翌年の明治37年、八雲が突然の病で亡くなり、
それから間もなく漱石が執筆したのが処女作「吾輩は猫である」でした。
その中で、主人公に「惜しいことに先生は永眠されたから」と八雲のことを語らせています。

図らずも、教師として作家として八雲の後ろ姿を見つめることになった漱石。
その後の漱石は、栄えある東京帝国大学の教授への誘いを断り教職を辞して、作家の道を邁進するのです。