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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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6/21「命のビザ」

ナチスのユダヤ人迫害が激しさを増し、緊迫した空気に包まれていた第二次世界大戦下のヨーロッパ。
各地のユダヤ人たちは、ドイツの北東にある小さな国・リトアニアに行けば、そこでビザを発給してもらい、迫害のない国に亡命できるかもしれない、というかすかな望みに賭けて、リトアニアめざして押し寄せてきたのです。
しかし、このときリトアニアはソ連に占領され、各国の大使館・領事館は強制的に閉鎖されていました。
唯一業務を続けていたのは、日本領事館。
そこに勤めていた外交官が、杉原千畝(すぎはらちうね)です。

祈る思いで日本領事館にビザの発給を願いにきた大勢のユダヤの人々を前に、杉原は戸惑います。
当時の日本はドイツと同盟を結んでいたので、ユダヤ人を救うことは日本政府に反することになるからです。
しかも、占領したソ連からは日本領事館も直ちに閉鎖するように、との命令が下ります。その猶予は3週間。
杉原は決心します。

命の危険にさらされたユダヤの人たちのために、食事もろくに取らず寝る間も惜しんで、来る日も来る日も一枚でも多くのビザを発行し続けたのです。
領事館が閉鎖され、リトアニアを出国する列車の発車間際までビザを書き続けた杉原。
そのために救われたユダヤ人は6000人以上だといわれています。
まさに「命のビザ」だったのです。

それから28年後、68歳になった杉原にイスラエルから招待状が届きます。
彼を待ち受けていたのは、かつて命のビザをもらったおかげで、戦争中、そして戦後を生き延びることができた人たちでした。
晩年の杉原の言葉です。
「私のしたことは外交官としては間違ったことだったのかもしれない。
しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。それは人間として正しい行動だったと思う」