6/8 「青春のアロー号」
日本の自動車が世界でもトップクラスと言われるまでの長い歴史の中に、クルマ造りに情熱をかけた、ひとりの青年がいます。
それは、国産自動車のパイオニアと呼ばれる「アロー号」を制作した、福岡県の矢野倖一(やのこういち)です。
明治45年、19歳だった彼は、新聞社が主催する模型飛行機大会に、参加者中ただ一人、エンジン付きの模型飛行機で参加します。
矢野の飛行機が金賞を受賞した記事が報じられると、これを目にした資産家の村上義太郎(むらかみよしたろう)が矢野を訪ね、「君の素晴らしい着想に感心した。
援助は惜しまないから一緒にエンジンを開発し、自動車を造ってみないか」と夢のような話を持ちかけます。
当時はまだ、輸入車に頼らざるを得なかった時代。
日本に国産車を走らせたいと願うふたりの二人三脚が始まります。
まずはフランス製の三輪自動車を改造しますが、参考にできる資料は数枚の写真のみ。
部品はほとんど一から造り直す難しい作業でした。
しかし、この経験が後の国産車造りに大いに役立ち、ついに大正5年、数点の部品を除いては、すべて国内でまかなう手造りの国産車「アロー号」が誕生したのです。
アロー号は、スポークの四輪タイヤがついた4人乗りの幌型自動車。
矢野はこれまでお世話になった人たちを、フルオープンにしたアロー号に乗せて、大正初期の博多の街を時速50kmのスピードで爽快に駆け抜けたそうです。
日本のクルマを造って走らせたいというふたりの男の夢が現実となり、92年前に国産車の幕開けを飾ったアロー号。
このクルマは、「現存する最古の国産車」として、現在、福岡市博物館に常設展示されています。
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