匠の蔵~words of meister~の放送

人形師【人形師 福岡】 匠:中村信喬さん
2016年01月23日(土)オンエア
かつて福岡城の城内であった福岡市桜坂の閑静な住宅街の一画に工房を構える日本を代表する人形師、中村信喬さん。昭和32年に博多人形師、中村筑阿弥氏を祖父に、中村衍涯氏(福岡県重要無形文化財保持者)の長男として生まれた中村信喬さんは、人が日々の生活を営む姿を見つめながら、『過去から現在の人々の祈りを人の形に現し、未来へ伝えることこそ使命』と創作活動を展開。そうして生まれた作品は我々のよく知る『博多人形』とはやや趣が異なる。
「博多人形は昭和30年代の高度経済成長期に人気を博し、『黒田武士』や『芸者』、『美人物』などが量産されるようになりましたが、それ以前は様々なバリエーションの作品がつくられていました。僕はその時代に戻りたいと思ったんですよね。かつて博多は国際貿易都市として栄え、海外から彫刻の注文を受ける造形集団が活躍していたのですが、それ故にヨーロッパの教会彫刻には『博多人形』らしき作品が数多く見受けられ、その中には僕の祖父がつくった『ヨゼフ像』もあるんですよ」。そんな造形集団の末裔として、中村信喬さんは日本伝統工芸展で賞に輝く様々な作品を生み出す傍ら、ヨーロッパでも個展を積極的に開催。バチカンでローマ法王に謁見し、自らの作品を献上するなどグローバルに活躍する。
「祖父は常々『お粥食ってでもイイものをつくれ』と言っていたそうです。そして父は『目でつくったらいかん。手でつくったらいかん』と僕に言い聞かせていました。それらを含む中村の精神=魂を僕は父の死の間際に右手を握ることで受け取りました。スピリチュアルな話ですが、僕の父も死の間際の祖父から『右手を握れ、その手に渡してやる』と言われ、中村の精神=魂を受け取ったそうです。ですから僕も息子には『間に合わなくてもイイから、その時が来たら僕の右手を握れ』と。その時は受け渡したモノが理解できないかも知れないけど、いつか必ず分かるようになるからと息子には伝えています」。技術は努力すれば必ず上達し、いつしか綺麗な人形をつくれるようになる。しかし人を惹きつける人形は『心』でつくらなくては生まれないと、代々中村家に受け継がれてきた精神=魂を大事に、心で人形をつくる中村信喬さん。そんな中村信喬さんは人形師に限らず、モノづくりを生業とする人間には、自我があってはダメだという。
「ある日、陶芸をやっている女の子がいて、『何をつくっているの?』と聞いたら、『湯呑』『花器』など7種類ぐらいあげるんですよ。『他に?』と尋ねると『それぐらいです』と言うんです。『それだったらお母さんの為にお茶碗をつくろうか』と。さらに『四季でつくってごらん』と。そして『どうせなら毎月替えてもらおうか』と。そうすると12ヶ月と四季で16個のお茶碗ができますよね。さらにお父さんの分までつくると32個になって『君はお茶碗だけで個展が開けるよね』という話になる訳です。しかもこれは一つのお茶碗だけですよね。『湯呑』『花器』『皿』と足していくと、無限大に広がりますよね。自分の範囲内だと7種類しか思い浮かばない彼女でも、『お母さんやお父さんはこんなお茶碗好きだよな〜』と考えれば、様々な色や形が浮かんできますよね。ですからアイディアというのは『人の為に』が基本にあれば無限大に広がるんです。そうしていく内に自分の作品の個性も生まれてくると思うんですよ。個性というのは自然に出るモノですからね。しかし基本は、『誰かの為に』です」。偉大な芸術家として後世に名を残すミケランジェロやダヴィンチも、後に『トスカーナ大公国』の君主となった一族『メディチ家』の為にモノを描いたり、つくったりしていたという中村信喬さん。料理をつくる人は客が喜ぶ料理を。サービスを提供する人は客が喜ぶサービスを。それはどんな仕事でも同じだろう。『誰かの為に』が基本にあるからこそ、そのモノは人の生活の中で光を放つ。
「例えば以前、義理の兄に還暦祝いのネクタイを贈ったのですが、『兄貴だったらコレかな』と考えて選びますよね。『自分が好きだからどうぞ』って贈るモノではありませんよね。普通はそういうモノなのですが、モノづくりって結構、自分なんですよ」。そんな中村信喬さんのもとには、実在する偉人の肖像や亡くなった家族の肖像をつくって欲しいという依頼も入るという。そんな時、中村信喬さんは決してリアリティーのみを追求することはないという。
「デスマスクって気持ち悪くないですか?アレはリアルですが生きていないんですよ。僕らが肖像をつくる時は、例えば、いつも少し傾いて立っているとか、少し口の片方をあげながら喋るとか、その人の性格まで読み取ります。そんな部分も捉えて人をつくるんですよね。そうでなければそのモノというのは生き生きとしてこないんですよ。僕はこれまで色んな人をつくってきましたが、人にはそれぞれの特徴があります。それは決して見たままの姿ではありません。僕らはその中まで読み取ることを大事にしているんですよね。ですから表面的な部分でいくら技術が優れていようとも、中身がないモノは、ただの木偶の坊でしかないと僕は思っています」。中村信喬さんのつくる肖像は、こんな性格で、こんな癖があって、こんな声をしているんだろうな〜ということまでイメージさせる。何故なら中村信喬さんは人の形をつくっているのではなく、人をつくっているから。
「以前、旦那さんを亡くされた80何歳のおばあさんから、その旦那さんをつくって欲しいと頼まれたのですが、完成した人形をお渡しした後、『彼がまさに今、小さくなって私の目の前にいます』と、旦那さんはヨットマンだったそうですが、『ヨットハーバーで牡蠣を獲って、私がバケツで運んだ時のことを思い出しました』という手紙を頂いたんですよ。その時に良かったな〜と、本当に嬉しくて家内と一緒に泣いた訳ですよね。ですから僕らモノづくりの人間は、それぐらいのモノをつくらないと、やはりつくってもらって良かったな〜と人に思われないのではないかと」。そんな中村信喬さんは、17世紀に北部九州からからヨーロッパへと旅立ち、日本とヨーロッパの交流の懸け橋となった『天正少年使節団』を象った博多人形を制作するなど、地元に所縁のある人物なども数多く手掛けているという。
「先日、東京の芸大に呼ばれて講義をしたのですが、彼らはアーティストとして東京の凄く層の厚い中で戦っている為、大部分の人が挫折するんです。ですから皆には『故郷に帰ってごらん』と言ったんです。そこには『お祭りがあったり、山や川があったり、自分の生まれ育った環境の周囲には必ず特色があるでしょう』と。そこに東京で学んだことをプラスすれば、個性的なモノが生まれるし、頭ひとつ飛び抜けることができるじゃないですか。例えば『天正少年使節団』のシリーズをつくり続けている人は、今となっては僕一人なんですよ。それが気づけば僕のオリジナリティになっている訳ですよね。ですから自分の足元を見れば、凄い技術やアイディアなどのオリジナリティが転がっているということを知ってもらいたいですよね」。それぞれの人には必ず、それぞれ違う生まれ育った環境やルーツがある。そんな自分の足元に目を向ければ、個性を生むことはできるが、中村信喬さんは、それだけでは人の心を動かす何かは生まれないという。
「やはり自分が今、こういうモノをつくらなくてはいけないという使命感が大事です。この『天正少年使節団』には、昔そういう少年たちが、日本にいたことを忘れないで欲しい。そして今の若い人たちも彼らのように、自分を捨てて人の役に立つ何かをして欲しいという僕の想いが込められている訳ですよ。ですから作家には、そういう使命感が必要です。自分の為ではなく、何かの為につくるという使命感は大事だと思いますね」。今後は「日本の工芸人形の素晴らしさを、さらに海外へと広めたい。人形=ドールは玩具として見られるが、『博多人形』は玩具=トイとは違うところを見て分かって頂きたい」と、まるで『天正少年使節団』の少年のように目を輝かせ、さらにグローバルな視点で日本の工芸人形の未来を見据える中村信喬さん。その座右の銘は、一つを得ようと思えば、まず一つを手放しなさいという禅語の一つ『一得一失』という尊い言葉だった。

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