匠の蔵~words of meister~の放送

肥後象がん師 白木光虎【肥後象がん 熊本】 匠:白木光虎さん
2016年02月06日(土)オンエア
日本伝統工芸展で数々の受賞歴を誇る肥後象がん師、白木光虎さん。『肥後象がん』は地鉄に金や純銀で図柄をはめ込み、錆で表面を覆い仕上げる熊本の伝統工芸品で、白木さんは江戸時代より主に花鳥風月の図柄が描かれてきた『肥後象がん』の世界に、今では当たり前となった幾何学模様を初めて取り入れるなど、洗練したデザインで新境地を切り拓く。
「象がんとは、あるモノに別のモノを埋め込む技術の総称で、木工芸や陶芸、漆芸の世界にもあるんですよ。そんな中『肥後象がん』は、約400年前に加藤家改易の後、熊本に国主として入国した細川忠利に召し抱えられた鉄砲鍛冶職人が鉄砲の銃身や日本刀の鍔に、装飾として象がんを施したのが始まりだと言われています。ですから『肥後象がん』は、お侍の工芸として発展してきたモノなんですよね」。その後、『肥後象がん』は細川家の歴代藩主の庇護のもと鏡や根付、文箱などにも装飾が行なわれるようになり、それらを含む優れた肥後象がん師たちが独自の意匠を凝らしたモノを持つことは、武士のダンディズムだったという。
「1900年に象がんの仕事を始めた白木家は、私で3代目になるのですが、その頃から『肥後象がん』は懐中時計や装身具などにも装飾されるようになって、より広がりを見せるようになりました」。白木さんは、そんな象がん師の家に生まれながら、まだ米軍が日本の航空管制権をもっていた頃に、鹿児島で航空管制官の仕事に従事。しかし2代目の父が病に倒れたことにより、29歳で家業を継ぐことを決意したという。
「当時『肥後象がん』の世界で名門の田辺家が5代で終り、家業として技術を受け継ぐ家がなくなってしまったんですよ。それなら代々続く『肥後象がん』の家があってもイイだろうと。もともと中学生の頃に、夏休みの工作として象がんで熊本城を作って、先生から『子どもが作ったモノではない』と疑われるぐらい象がんには興味をもっていましたからね。今は息子が私と一緒に仕事をしていますので、4代目がこれからも白木家の伝統を受け継いでいってくれると思います」。そんな白木さんは航空管制官時代にアメリカの文化に触れたことの影響により、英字を象がんの図柄に取り入れるなど、伝統工芸品である『肥後象がん』の世界に、幾何学模様を始めとする様々な新風を吹き込んできたという。
「伝統の特色と技術を駆使して、その時代に合った新しい作品を生み出すのが伝統工芸。昔のまま、そのままのモノを作るのは伝承工芸なんですよね。伝統と伝承は違うんですよ。そこを同じように考えている人が多いと思います。例えば初代が作ったモノを2代目、3代目がただ真似ても、やはり初代のモノには敵いません。段々と質が悪くなるんですよ。オリジナルが一番なんですよね。いま熊本では肥後象がん師が何人も活躍していますが、それは先人たちがずっと繋いできてくれたブランドのおかげなんです。しかしそのブランドに今を生きる職人がいつまでも頼っていては『肥後象がん』がダメになると思うんですよ。ただ『雅味(がみ)にして重厚』という『肥後象がん』の特色だけは大事にしないといけません。『雅味』というのは渋さです。『重厚』というのはどっしりとした雰囲気です。これは武士の文化と共に発展したお侍の工芸ですから、そこだけは大事にしようと」。花鳥風月に代表される具体的な絵柄と違い、幾何学模様などの抽象的なデザインは飽きがこないと、『雅味にして重厚』でありながら、現代の人々に愛される『肥後象がん』を追求する白木さん。そんな今の時代と共に歩む白木さんの『肥後象がん』は、これからも未来へと向かって進化し続けることだろう。
「ですから私は無意識に50年先、100年先のことを考えて作っています。『肥後象がん』は丈夫ですからいけません。江戸時代の素晴らしいモノが今も残っているように、『肥後象がん』は本当に丈夫で長持ちするんですよ」。そんな白木さんは「自分で最高と思ったら終りです。もっと良くなりそうな気がするんですよ」と、77歳を迎えた今も新たな図柄や技術を追求する傍ら、講座などを通じて後継者育成事業にも積極的に取り組んでいるという。
「象がんの世界で国から伝統工芸品の指定を受けているのは『肥後象がん』だけなんですよね。これは庇護してくれた細川家のおかげでもあるんですが、そんな多くの人々に愛され、大事にされてきた『肥後象がん』だからこそ、私は無くしてはいけないと思っているんですよ」。そんな白木さんの座右の銘はイギリスの詩人シェリーの『西風に寄せる歌』の一節に基づく『冬来たりなば春遠からじ』という言葉。たとえ現在が厳しい状況であっても、じっと耐え忍んでいれば、いずれ幸せが巡ってくると精進してきた白木さんが紡ぐ『肥後象がん』の伝統は、確実に後進たちへと受け継がれていた。

| 前のページ |


| 前のページ |